ポテトサラダ通信 72
久里洋二さん逝く
校條剛
漫画家・アニメーター・画家の久里洋二さんが、11月24日(2024年)老衰のため96歳で亡くなられたと訃報が届きました。96歳は長生きのほうでしょうが、なかなか100歳の壁は厚いのですね。久里さんを知る人たちは、多分久里さんなら100をクリアすると信じていたことでしょう。
久里さんに初めて仕事をしてもらったのは、40年ほどまえのことでしょうか。当時、私は新潮社の「小説新潮」という雑誌の編集部にいました。この時代、小説雑誌には、ページの中程に色ページ(黄色とか薄い緑とか)の8ページの娯楽欄が必ずといっていいほど付いていました。娯楽と言いましたが、実態はお色気というか、男性読者向けのコラム記事やコント(艶笑話)のページで各雑誌無記名のライターが妍を競っていました。後に名をなした作家も多くいたのです。小説新潮では塩田丸男さん、阿刀田高さんの二人が担当しており、新入社員の私が初めて担当したのはこのページだったのです。
色ページには小さなイラストが十枚ほど付きます。最初は長尾みのる氏に画いてもらっていたのですが、阿刀田さんが小説を発表し始め、直木賞受賞まで出世したので、ライターが変わることになり、イラストも別の方にというので、久里さんに依頼したという流れだったように記憶します。
すでに中堅の漫画家で絵画も発表していた大物の久里さんに受けていただけるかは不安がありましたが、簡単にOKが出ましたので、毎月ゲラが上がると久里さんの仕事場に持参していたのです。
初めて久里さんとお会いしたときのこと。久里さんの自宅のマンションは麹町にありました。出てこられたのは奥さんで、久里さんは仕事場のほうにいる、と。仕事場のことは知らなかったのですが、同じ町内にあり歩いてすぐの、やはりマンションの一室でした。
久里さんに、ご自宅のほうに行ったことを言うと、「女房、怒っていたでしょう!」と厳しい口調。しかし、すぐにその怒り顔は消えて、仕事の打ち合わせに移ったのです。『久里さんて、恐妻家なんだなあ』と今も久里さんの怒り顔を思い出します。
付き合いが深くなると、こちらが誘ったか誘われたか忘れましたが、銀座方面の比較的安いバーやクラブに一緒に出かけるようになりました。
銀座のバーに最初ご一緒したときのこと。コリドー街の裏手だったと思いますが、三十代のママが一人で始めたカウンターのバー(正式にはスナック)に入りました。ママの前歴は「元○○夫人」ということでした。○○というところには、私が所属していた新潮社とは商売敵の出版社名が入ります。
久里さんが私を紹介した途端、Kママの表情がこわばり「出て行け」というような言葉が放たれました。あっけにとられた私は売られた喧嘩には答えるタチですから、「コノヤロ」という時点で、久里さんに引っ張られてそのバーを出ることになりました。
翌日、私が社にいると来客だと受付から連絡がありました。訪ねて来たのは、昨晩のKママでした。
「久里先生に厳しく叱られました。お詫びして来い!」というわけで、菓子折を差し出します。虎屋の最中の詰め合わせでした。虎屋に最中があることを初めて知ったのがこのときです。
その後、銀座の一等地にバーを移転したKママの店に久里さんと一緒のときも、また単独でも行くようになりました。いまではKママは転身して演劇プロデューサーです。フェイスブックの友だちでもあります。
銀座というと、ある日、久里さんからお誘いがかかりました。今夜開店するクラブがあり、初日は料金がタダだというのです。このクラブでは開店祝いのお土産に電卓を貰いました。その電卓を十年以上使い続けたのでした。
あるとき、「もう銀座はやめにする」と宣言があり、お互い銀座に行くこともなくなってからは、お会いするのは年に二、三度開催される個展のときだけになりました。最近は、個展の回数も減り、私も顔を出さなくなって十年以上になるでしょう。フェイスブックの久里さんの投稿で近況を知るばかりでした。
久里さんの思い出で妻と共有しているエピソードがあります。久里さんが音響機器のパイオニアの製品が二割引だかで買えるというので、欲しいと思っていたレーザーディスクの再生機を買ってもらったのです。久里さんの仕事場に届いたブツを取りに行くのに、妻に運転して貰って、当時マイカーだったVWサンタナで多摩ニュータウンから麹町に向かいました。想定以上の時間がかかり久里さんとの約束の時間を過ぎてしまっていました。久里さんは自宅にお昼を食べに行く時間が過ぎてしまったので、往来にレーザーディスクの再生機を運んで、待っていてくれました。妻に当時の思い出を聞くと、まだ幼稚園に入るまえの息子が同乗していて、「おしっこがしたい」と言ったので慌てたということでした。
もう一つ、久里さんはあるときから漫画よりもアクリル絵の具を使った絵画をたくさん画くようになりました。毎年二度は開催される個展はこの絵画を展示したものでした。久里さんは、もう漫画家というより画家になっていたのです。
ある日、久里さんの仕事場を訪ねると、ポラロイドで写真を撮られました。何枚か撮られたと思います。その写真をもとに、私の肖像を画くのだと。私の肖像画が完成したのは、それから一年ほど経ってからだったでしょうか。筆の速い久里さんにしては時間がかかっているようですが、実は久里さんがポラロイドカメラを向けた相手は百人以上いたようです。絵が出来ると、そのレプリカと切手サイズに印刷されたシートが販売されます。あくまでも希望すればの話で、注文しなければお金が要ることはありません。そもそも久里さんの手元に入る金ではなかったと思います。
モデルになったのは、友人が多かったのですが、確か長嶋茂雄さんなどというビッグネームもあったと思います。
モデルの一人の映像作家はそのとき、死の床に横になっていました。癌だったと思いますが、彼の肖像を完成した久里さんは入院先の病院に持っていって見せたのです。
絵をまえにしたその方のひと言は「似てないよー」だったと久里さんから聞きました。不謹慎ながら笑ってしまいました。私の顔も似ていませんが、私は額装されたレプリカと切手シートを購入したのです。私の肖像画はいまロフトの奥の倉庫に眠っています。
仕事の量にしてはお付き合いが続いたほうだと思いますが、久里さんには「文字もの」、特に小説を書きたいという意欲があり、私にその仕事を託そうという気持ちがあったのです。小説のときのペンネームは確か「空理羊羹」だったと思うのですが、正確ではありません。もう一つ、「占い師」としてのペンネームも考えてあったような記憶もあります。そもそも、久里洋二もペンネームなんです。
久里さんは、生来左利きで、軍人だった父親がそれを気に入らず、お膳をひっくり返されることも度々だったと聞きました。そんな久里さんが、あのように天衣無縫でイノセントな人間に育ったことはまことに不思議です。