朝の儀式 | ポテトサラダ通信(校條剛) | honya.jp

ポテトサラダ通信 71

朝の儀式

校條剛

 小さい頃から面倒くさがりでした。ジジイになってきたこの頃はさらにその性格が際立ってきました。
 先日も京都に行かなくてはならない用事があったのですが、人前に立つ仕事だったので、まずは露出する部分を整えなくてはなりません。口のひげはもとより、髪の毛、鼻毛、眉毛を整えなくてはなりません。
 一泊するので、季節に相応しい外着を考え、下着、洗面道具、クスリなどの用意も必要です。スマホと充電コードは必須のアイテムです。
 前日はほとんどこの準備で消えます。午前中は「ああ、メンド」という気持ちが勝っていて、準備する気持ちになれません。準備にエンジンがかるのは、日が暮れる五時くらいから。ま、いろいろ諦め(完璧が無理だと気づく)がついて、エイヤッと暴力的にキャリアケースに放り込みます。
 しかし、一番困るのが当日の朝の起きる時間と用便がうまくいくかどうか。私は会社員時代から「ウ○コが出ないうちは出勤しない」と豪語していたくらい用便を人生最大の関門と考えていました。
 排便を促すには、出発の二時間ほどまえに食事を始めなくてはなりません。腸の活動を促すのには、最低一時間が必要なのですが、一時間では欲求が起こらないことがあります。そういうときには、紅茶ではなくて珈琲をさらに一杯加えて飲むことも結構多いです。
 何も食べないでトイレに座るのは、お腹を壊しているときくらいしか起こりません。
 朝の食事メニューは厳密に決まっています。まず紅茶。普通人の1.5倍くらいの量を飲みます。紅茶は茶葉で淹れなくても、ティーバッグで一向に構いませんが、コンビニで売っているような黄色いパッケージのなんかは、やはり旅先で諦めて求めるレベルですから、多少は美味しいバッグを使います。野菜は糖尿持ちの私には欠かせません。夏場は生が多いですが、冬場には温野菜が多くなります。外食の付け合わせのサラダの何倍かの量を食べます。卵もかならず最低一つは。目玉焼きが多いです。ぽちっとほんの少しケチャップを乗せます。パンは天然酵母の小麦がぎっしりと詰まったやつが好みなのですが、スーパーでそれを買えるのはいまのところ冨士河口湖町のセルバというスーパーのみです。東京にいるときは、リトルマーメイドのバゲットでお腹を欺しています。パンには「低糖質」「砂糖添加なし」のアヲハタのジャム。日によって多少内容に変化はありますが、以上が基本です。
 長々と書きましたが、実は旅の宿で和食に日本茶でも、パン食に珈琲でも構いません。要は、ある程度の量の食事と温かいお茶が必要だということです。
 これらすべては、排便の準備ということになります。
 つい最近、つれづれなるままに内田百閒のエッセイを読みました。この人のエッセイは劇的な要素がないので、何度も読めるのが特徴で、うっすらと中身は覚えていて、「これは読んだな」と気がついても読めてしまいますし、新しい発見もあるのです。
 そのうちの一つ「百鬼園日暦」は無精で面倒くさがりの百閒の一日が描かれていて、私との相似性に思わず頬が緩んでしまうのです。
 まず、「朝の支度に四、五時間かかっている」というところに大いに共感します。なぜそんなにかかるかというと、トイレを終わり、顔を洗うまでのきまりが多いからです。
 朝食はこの作家らしい独特の手順で始まります。起きるとすぐに果物を食べる。出されたものをそのまま全部ではなくて、ここにも決まりがあります。梨やリンゴは半個、桃はまるごと一つ。同時に葡萄酒を一杯飲みます。え? と驚かされますが、日本薬局方で指定されている「赤酒」というものだそうです。養命酒でも熊本の地酒の「赤酒」でもなく、要はブドウ酒なのです。普通のワインとどう違うのかは分かりません。ネットで調べると「赤酒リモナーデ」というもののようです。まあ、本人的には養命酒同様、滋養強壮的な効用を信じているのでしょう。そのあとには、バサバサと沢山届く郵便物の検分と新聞を読むことが続きます。その間も口は休むことなくビスケットを囓り、牛乳を流し込みます。ビスケットは英字の形をした甘くないのを常食しているといいます。私の子ども時分にも英字のビスケットは広く流布していましたが、近年は見たことがありません。
 そのあとに〈上厠(じょうし)して最後に顔を洗って、それで朝の支度を終るのである。〉となっています。上厠は「かわやに上がる」ということですから、要するにトイレに入ることですが、ずばりウンコをするということなんですね。
 つまり、百間先生も排便という仕上げに向かって朝食を手順に従ってこなしているわけなんですね。これを儀式と呼ばずして、他の何を挙げるべきなのでしょう。
 私の場合は百間先生のように、四、五時間かかるということはありませんが、朝の二、三時間が一日の好不調を決めるための儀式であることに変わりはないのです。