フェイスブックの渡辺隆司君 その1 | ポテトサラダ通信(校條剛) | honya.jp

ポテトサラダ通信 68

フェイスブックの渡辺隆司君 その1

校條剛

 終活というわけではありませんが、古い紙焼き写真が溜まっているので、思いついて整理し始めたのです。そのときモノクロのスナップ写真が四枚出てきました。その四枚に共通して写っている一人の男。名前は渡辺隆司。私の卒業した早稲田大学第一文学部フランス文学科の同級生でした。写真の渡辺君は、髭は剃っているし、かなり伸びた髪も手入れをしているのか、伸び放題ではありません。冬場なので、トレンチコートを着ていますが、写真のなかの他の三人(私を含めて)とは違い、学生の着たきりスズメ感からは免れて、粋に着こなしているのです。

 このモノクロ写真の撮影時日は、1973年の1月。場所は文学部のキャンパスの広場。おそらくこの日がわが生涯で渡辺君と顔を合わせた最後であったと思います。というのも、期末試験でも卒業式でも顔を見た記憶がなく、就職してから以降、現在までの五十年間一度も会ったことがないからです。それどころか、彼の存在を思い出したことさえなかったのです。

 渡辺君とだけではなく、我々の世代の同級生はお互い縁の薄い存在でした。大学紛争の時代だったのです。1969年春、入学してすぐの五月、同級生の顔を覚える時間も与えられず、自治会が強行した全学スト、大学の対抗措置のロックアウトと続き、なんと9月まで授業がないどころか、学内への立ち入りも禁止されました。ロックアウトが解かれたあとも、大学当局の無策は続き、授業を再開したというものの、自治会を支配していた革マルという暴力的な一組織にことごとく潰され、年末までまともな授業を受けた記憶がありません。いや、三月までの一年生の期間すべてで大学が正常化することはありませんでした。さらに卒業まで、授業は乗り込んできた革マルの「組員」に潰されたり、中庭で大音声を響かせるアジテイションなどの妨害行為に悩まされたのです。そういう状態で、よくぞ毎年進級をさせ、最後には卒業証書まで渡してくれたと、早稲田に感謝するべきなのでしょうか? 四年間、遊ばせてくれてありがとうと?

 あの時代の説明が長くなりました。言いたいことは、同級生と仲良くなるどころか、知り合うことさえ難しい時代だったということなのです。とくに私のように東京の自宅から通っていた人間においては、授業以外、下宿や飲み屋で仲良くなる環境がなかったのです。

 渡辺君の存在に気が付いたのは、四年生になってから、しかも卒業が近いころだったと思います。冒頭に述べた写真を撮影した時期から少し前だったのでしょう。教室に現われた彼は、髭面で山に籠って修行していた男のような雰囲気を漂わせていました。初めて見る顔だったので、驚きました。どうして彼と言葉を交わしたのかは、もはや記憶がありませんが、そのとき彼が語った内容がショックでした。
「家でずっとフロベールを読んでいた。ガリマール版の原書で。全作品読み終えた」と。

 フランスの出版社ガリマール書店は、プレイヤード叢書という上質の薄い用紙を使った、辞書のような厚さの文学全集を刊行していました。一作家一冊が原則ですが、作品数が多い作家は数冊にわたることがあります。一冊といっても、長編を何作も収録出来るキャパがあります。そのプレイヤード版のフロベールを全部読んだというのです。フランス語がそこまで出来る同級生がいるとは、思いもしなかったことでした。私など他の学生よりは勉強したほうだと自負していましたが、フランス語は上達せず、卒論を書くのに、原書を脇に置いてはいたものの、基本的に翻訳されたものに頼っていたのです。
 フロベールを原書で全作品を読んだという同級生が存在した! そのときのショックはいまも胸中に残っています。
 
 渡辺君は研究者になるため大学院に進み、修士か博士の資格を獲得して、当然どこぞの大学の教師になっているだろうと想像しました。ネットで彼の名前を入れて検索してみたのですが、はかばかしい結果が見えてきません。
 そこで、フェイスブックで友達になっている、やはり早稲田仏文の同級生松浪君に連絡を入れて、渡辺君のことを訊いたのです。松浪君とは四年生のときの教育実習(フランス語)で早稲田高等学院へ一緒に行った仲でした。彼とも長い間、音信は通ってなかったのですが、どうやら女子大で専任教授になっていたようですから、同じ研究者現場にいた人間として、渡辺君のことを知っているはずだと考えたのです。二人とも早稲田の大学院に進学した可能性も高いのです。
 しかし、松浪君が覚えているのは、渡辺君が関西弁を使っていたということと、もう故人であるということ、青山学院で教えていたということくらいでした。確かに渡辺君は大阪の人だという記憶が私にもありました。あとで分かったことですが、大阪の公立校の名門大手前高校の出身でした。

 ネットで検索しても彼の履歴は明らかにならなかったと言いましたが、検索を繰り返しているうちに、渡辺君がフェイスブックを使っていたということが判明しました。そこで、フェイスブックの彼の名前をクリックしました。すると、出てくるわ出てくるわ、2012年から膨大な量の投稿が埋蔵されており、私が読めたのは2016年から2018年初頭までのほんの一部に過ぎません。既に故人であると、しかもかなり以前にと聞いていましたが、六年前の2018年2月ではないかと想像するのは、最後の投稿が1月31日の日付だからです。

 さて、渡辺君のフェイスブックを全部辿るのは無理かも知れませんが、読めば読むほど彼という人間の生き方が見えてきます。青春時代に一瞬交叉した私が、これほど彼の人生を知ってしまってもいいのかとさえ思うほどです。
 そのフェイスブックの中身については、次回にお話ししましょう。