ポテトサラダ通信 63
ゲームの影響
校條剛
『さすらいの二人』のDVDを久しぶりに観ました。
この映画の原題は“The Passenger”ですから「旅客」という意味なのですが、監督のミケランジェロ・アントニオーニは前に『さすらい』という映画を撮っていて、名作とされている映画ですから、そこからの連想でこの邦題を付けたのでしょう。もっとも、この『さすらい』もイタリア語の原題を翻訳すると「叫び」になるので、日本の配給会社の勝手な命名に振り回されているだけなのです。私は映画の題名は原題そのままを翻訳するほうがいいと考えています。
このDVDには、主演のジャック・ニコルスンの解説が全編にわたって付されています。全編を観るのは辛いので、何カ所か選んで撮影の裏話を聞かせてもらうことにしました。
この映画は、公開当時ラストシークエンスの七分の長回しが有名になりました。ホテルの部屋のなかの鉄格子からカメラが這い出していき、外に移動したカメラが、こんどはその小さなホテルを外側から映し、主人公(ニコルスン扮するデヴィッド・ロック)が殺されて、ベッドに横たわっているシーンを窓枠の間から撮影するといったシーンです。
この撮影がどのような仕掛けで行われたのか、「監督は怒るかもしれないが」と冗談めかしながら、種明かしをしてくれています。ホテルは既存のものを使ってはおらず、この映画のために建てたのだといいます。しかも、建物が真ん中(主人公の部屋)から真っ二つに分かれるように作ったのだそうです。一旦外に出たカメラは反転して、ロックの部屋を映します。このときには、ホテルはまた合体していて、部屋の鉄格子はもとの位置に納まっています。部屋のなかには、ロックの妻とロックの連れのマリアが警察の人間らしき人物と一緒にいて、ベッドでぐったりとなっているロックを見下ろしています。妻がロックの顔を確かめて、「知らない人です」と警察官に話すのと対照的に、一緒にバルセロナから田舎町に流れ着いた連れのマリアは「知っている人」であると告げるのです。初めて映画館で観たときに、このシーンに非常に感動したことを思い出すのですが、映画館で観たときとは違った映像に見えるのは不思議です。初めて観たときには、マリアが「この人を知っている」と答えることの意外性に驚いたせいでしょうか。妻には愛人がおり、このシーンは夫が確実に死んだことを確認すればよかったと解釈できるかもしれないのですが、愛人に対しても冷淡な妻がそういう気持ちだとは思えません。「これだ」と限定しない描き方をするのがアントニオーニの主義なので観客の思い通りにはさせないぞ、ということなのでしょう。
ニコルスンの解説で注目したのは、冒頭導入部のシークエンス(シーンのつながり)です。四駆のジープタイプのクルマがアフリカの僻村に入ってきます。砂漠のなかの小さな村で、ロックはジャーナリストなのでこの地域の情報を求めて四駆を走らせているということを匂わせます。そこからまた違う村に向かい、砂漠のなかに聳える岩山からゲリラ兵たちの行進を目撃したりします。どうやら、この土地では内戦が起こっているらしいです。しかし、何ら劇的な事件は描かれません。銃撃戦もカーチェイスもなく、それどころかセリフもほとんどなく、内包されている動きがあるとしても、表面はいたって静かな様相なのです。ニコルスンは次のように言います:「こういう何も起こらない出だしは最近の映画では流行らない。観客は常に刺激を求めている。恐らくゲームの影響だろう。でも、自分はこういう静かな出だしが好きだ」と。
この映画の製作年度は1975年です。しかし、解説がつけられたのは、もっとずっとあとのことですから、全世界的に世の中は「ゲームの時代」に入っていたのでしょう。
ゲームの影響と言えば、小説の世界でも同じことが言えるのではないでしょうか。
自慢ではありませんが、私はゲームなるものをやったことがありません。もちろん、ゲームがどういうものであるのかは、一緒に住んでいた息子がはまっていて、一日中ゲーム画面に向かっている姿を見ていますし、コントローラーを触らせてもらい、動かし方を教えてもらったこともありました。しかし、ゲームプレイを楽しみたいと思ったことは一度もありません。ゲームというものにまったく興味が持てない人間なのです。
というよりゲームに対して、かなりの嫌悪感を抱いています。ゲームのすべてとは言いませんが、ゲームの中身は「障害をいかに乗り越えるか」という障害物競争風のものが目につきますが、「シューティング」「格闘技」の種類のものがさらに多いようです。人を撃ち殺したり、殴り倒したりする種類の、つまり戦争や侵略に精神としてはつながっていく性質を露骨に示しているものです。そんなに戦争がしたいのかとゲーム愛好者には問いかけたい気持ちです。同じ人間が片方でプーチンを非難しているとすれば、滑稽でしかないとも思います。近年のスポーツブームもゲームの隆盛と密接に関係しいるとしか思えませんが、話が広がりすぎるので、その方向へは進めないことにします。
さて現代の小説は非常にゲーム的です。とくに我が国のミステリーは戦前より本格と呼ばれる(実現不可能な)トリック優先、特殊設定優先、人物描写などという文学的な要素はツメの垢ほどにしかなく、登場人物は人間ではなくロボットだともミステリー批判者からは言われてきました。
最近はことに、実際に存在しない異生物を登場させるなどファンタジーとかホラーの衣装をまとったミステリーも現われて、しかもそういう種類のものほど売れるようです。そこに、赤々とゲームの影響を見ないわけにはいきません。
しかし、私は決してゲーム的な要素など取り入れたりはしないでしょう。私のような古典的な「伏線、仕掛け、人物のバックグラウンド描写」だけの「昭和派」は劣勢にありますが、私が書きたいのはまさに映画『さすらいの二人』のようなミステリーなのです。