ポテトサラダ通信 36
土屋嘉男さんの巻
校條 剛
夏が来れば思い出すのは、俳優土屋嘉男さんのこの言葉である。
「東京にいると頭がバカになってしまう」
暑さと湿気で頭がまるで働かなくなってしまうという意味である。だから、夏場を東京で過ごすほど馬鹿げたことはない、と。
それが、今年は春先からのコロナウィルスの大流行が収まらず、さらにこの原稿を書いている現在は、線状降水帯という新語で語られる梅雨前線の怪物化で川の氾濫、土砂崩れなどの被害が続出して、真夏の暑さは話題に上るまで到っていない。
さて、俳優の土屋嘉男さんと書いたが、どれだけの方々が現在この名前をご存じなのだろうか。黒柳徹子さんの「徹子の部屋」出場最多記録を持っていたはずだが、もうどなたかに追い抜かれただろうか。2017年に満89歳で亡くなったが、甲州塩山育ちのこの山男は頑健な身体と精神の持ち主だったので、90歳に手が届かなかったのは意外だった。
1957年『地球防衛軍』で日本の俳優として初めて宇宙人を演じる一方、いわゆる黒澤組の俳優で『七人の侍』を始め多くの黒澤作品にバイプレーヤーとして出演している。『七人の侍』で農民利吉役を演じたのが土屋さんだ。確か山賊との戦いに多くの犠牲者を出しながらも勝利したあとに、歌いながら田植えをリードしていた、お百姓役が土屋さんだったはずだ。土屋さんの演技は噓っぽい不自然さがないところが黒澤監督の気に入ったところなのだと想像する。
晩年の土屋さんは『クロサワさーん!』で黒澤監督との交友を描いて、黒澤組であったことを誇っていたが、特撮映画の履歴にも確固たる実績があったので、一部の若い世代からカルト的な人気を得ていた。一度、中野サンプラザで開かれた集会に呼ばれて観に行ったことがあったが、土屋さんは若者たちに囲まれていても、小説雑誌編集長だった私のほうに、ついついやってきてしまう。この日は、土屋さんに憧れて集まったファン達が中心の日なのに、特撮映画の土屋さんを観たこともない私とばかり話をしたがるので、ファンの皆さんに申し訳ない気になったものだ。
土屋さんは物を書きたい人だった。モノを書きたい芸能人は、映画やテレビの主要舞台から離れたあとでは、出版社の編集者を頼りにすることが多かった。晩年にお付き合いした森繁久彌さん、池部良さんなど常に何かを書きたがっていて、我々文芸編集者を大事にしてくれた。
森繁さんも池部さんも、そして土屋さんも亡くなってしまって本当に寂しい。
土屋さんは、東京にいると頭がおかしくなってしまうので、夏の初めに大型の四駆SUVを飛ばして、和泉多摩川の家から長野県立科のセカンドハウスに行ってしまう。夏場の撮影などすべてお断わりである。
一度、立科の家に遊びにいって、泊まらせてもらったことがある。東急が開発した蓼科別荘地からは遠くはないが、別の地域だと土屋さんは、東急の別荘地は嫌っている様子だった。
女神湖という冬場は凍り付く小さな湖の奥だったと思うが、もちろん道順なんかは忘れてしまった。家の佇まいもぼんやりとしか記憶にないが、予想以上にこじんまりとした普通の建物だった。庭一面に生い茂った熊笹ばかり今も目裏に鮮やかである。
土屋さんは不思議な人で、幼いころから交友関係も多彩である。それぞれ、偶然の出会いから始まるのがまた驚きなのだ。黒澤監督に見いだされたのも、偶然トイレで連れションをしたからだし、子どものときには、釣り師でもあった作家井伏鱒二と近所の川で偶然知り合っている。一番印象に残っているのは、同郷の作家深沢七郎とのエピソード。
井の頭線の池の上駅(だったか)のあたりを歩いていたら、深沢七郎の「オネエ」言葉が聞こえてきたのだという。その喋りだけで、深沢こと桃原青二(芸名)だと分かったというのだから凄い。深沢の喋りが凄いのか、土屋さんの耳が凄いのかよく分からないが、凄い。目の前の一軒に飛び込んだら、そこに深沢七郎がいたというから本当に凄い。
「頭がバカになるような」夏が早く来て欲しいものだ。