ポテトサラダ通信 33
ちょっといい話・その2 池部良さん
校條 剛
「ちょっといい話・その1」の回で、この言葉が流行ったのは、漫画家・岡部冬彦氏の著作からと書いたが、間違っていたようだ。私の本棚の奥の方から戸板康二『ちょっといい話』(文藝春秋)が出てきたのである。それで、やっと思い出した。戸板康二さんが、少なくともこの時期においては最初と思われる。訂正しておきたい。
さて、戸板さんの名前も忘れられて久しいが、演劇評論家の傍ら、小説も書き、直木賞も受賞しているくらいだから、手すさびに小説を書いていた人ではない。長篇よりも短篇の得意な方だったと記憶する。
面識はないが、何度かお見かけしたことがある。幅広の顔に細い目、右の目尻の上が少し引きつっているようで、顔面神経痛でもあるのかと思わせるような、一見気難しそうな方であった。一度、お話ししたかったと残念である。
そういう方が、軽妙な筆致で歌舞伎役者や小説家などのちょっと笑えるエピソードを集めていたのは不思議だが、多分、直にお話しすると印象が変わったのだろう。
戸板さんが、その本に書いているエピソードはどれも短くて、大笑いするようなネタではないが、ちょっと笑えるところがやはり肝なのだ。一例を引いてみよう。
<十三代目片岡仁左衛門さんが、「伊達の与作」の芝居で、わが子の役で出ている子役に向って一生けんめいセリフをいっているのに、子役がちっとも自分の顔を見ないので、小声で「お父さんを見なさい」といった。
この子役は幼い馬士の三吉だから、ひいている馬が舞台に出ているのだが、子役は、あいかわらず仁左衛門さんを一向に見ず、その馬のほうばかり見ている。
幕になってから、「どうして私を見ないんだ、お父さんを見るようにと、あんなに注意したのに」というと、子供が無心な顔で、「あの馬に、ぼくのお父さんがはいっているんです」>
「映画100年」ということで記念企画が目立った年があった。リュミエール兄弟のシネマトグラフ商業上映が1895年というので、1995年がちょうど、その100年目に当たるため日本でもいくつかの記念行事が執り行われた。私も自分の雑誌の企画として、映画人の座談会を目次に入れることにしたのである。
その前年の暮れに、俳優の金子信雄さんが風邪のため入院した。金子さんは自ら料理をしたり、レストランを開業するほどの料理好きとして有名だったが、私の学生時代には映画「仁義なき戦い」の老獪な組長役で知られていた。
その金子さんに、「映画100年」記念の座談会に俳優代表として参加してもらうOKをいただいていた。一月末に銀座の料理屋の部屋も予約してあったのだ。
メンバーは監督代表として谷口千吉氏、脚本部門は山崎巌氏にお願いをしていた。ところが、正月が明けても金子さんは退院しない。担当者は年末に金子さんと話をしていて、「ちょっと風邪を引いたので、大事をとる」という程度のことだったという。入院が長引いて心配していたが、いきなり金子さんが病院で息を引き取ってしまった。我々は驚いたが、ご本人が一番驚いたのではないだろうか。
金子さんには申し訳ないが、私は編集長としてこの企画をふいにしたくはなかった。頭に浮かんだのは、大物俳優だが、モノを書くのが大好きな池部良さんだった。担当者は別にいたが、連載もしてもらっていたので、二度ほど一緒に食事もしていて、顔見知りであった。
えいやっと、池部さんに依頼の電話をした。もう収録が迫っているのに、「いま出来た企画です」とは言えずに、正直に昨年からの経緯を述べた。金子信雄さんの「代役」であることはもちろん話さなくてはならない。はっきり言ってバイプレイヤーの金子さんと主役スターの池部さんとでは本来、立場が逆である。主役クラスの人の代役は、脇役が務めるのが普通であることは言うまでもないことだ。
そういうことは百も承知で、天下の池部良に代役をお願いしたのである。しかも、訪ねていって、畳に頭を付けてではなく、電話でしたのである。
すっかり私の話を聞き終えた池部さんが発した言葉は――
「高いよ!」
甲高い声だったが、冗談混じりの言葉であることが瞬間的に分かった。引き受けてくれたのである。出演料は、ごく普通の金額であったことも言い添えておこう。もちろん、池部さんのほうから金額の指定などこれっぽっちもなかった。