ポテトサラダ通信 26
「引っ越し」という大事業
校條 剛
前回のこのコーナーでお話しした失った手袋の件で、新事実を最初に述べておこう。
手袋を都合二度落としたわけだが、前回寺町通りでの紺色の手袋の残った片方を捨ててしまっていたとお話ししたが、引っ越しの作業中に見つかったのである。東京で落とした赤い手袋が一つあるので、今度の冬は紺赤ツートンカラーでお出かけができることになった。素直に嬉しい気分である。
引っ越しとは、過去の清算と見つけたり。私の年齢ではまだ「終活」は早すぎるような気がして、「清算」と述べたが、単に荷物をA地点からB地点に移動させることではないとわかったのである。
4月9日にまる四年間住んだ京都を去り、東京日野市に戻った。単身赴任のワンルームマンション暮らしだったので、さぞかし楽な引っ越しだったのではと思われるかもしれない。
大変だった。身体的にも気持ち的にも、相当な重労働だった。なにせ、女房は家猫がいるから留守にできず、私ひとりですべて済まさなければならなかったからだ。
業者にはかなりまえ、1月半ばには、部屋に来てもらい、見積もりを立ててもらって、すぐに契約を交わしていた。そんなに早く契約したのも、4月に入ってからの移動にしたのも、毎年3月に注文が殺到して、ただでさえ人手不足の業界なのに、私がさらに忙しくさせる必要はないと判断したからだ。
できるだけ安い料金で、という気持ちはさほどなかった。標準の値段で、荷物が無事に送られればよかったのである。
段ボールなど梱包材は、4月1日に届くようにしてもらった。引っ越し当日まで一週間以上余裕があるが、大事をとったのだ。そんな長い期間は必要ないと途中で考えないでもなかったが、結果的にそれは正解だった。
間に一日神戸に展覧会を見に行き、ついでに神戸の情緒を存分に味わっておこうと親しい先生と一緒に出かけた一日を除いて、ほぼ毎日荷詰めをしていた。
その課程で自ら驚かざるを得なかったのは、荷物の多さ、複雑さであった。荷物は基本カテゴリーが一緒のものを同じ段ボールに入れるが、カテゴリーから外れるような小物が続出するのである。書籍や衣類、布団類はある程度大きな塊として処理できるが、小物はそうはいかない。それが大変だった。
最後はカテゴリーもへったくれもあるものではない。一気に荷詰め終了である。引っ越し前日のリサイクル業者との対応や引っ越し当日の業者の手際の良さなどここでは語らない。
人生の大問題に直面するのは、引っ越しの荷物が自宅に届いてからだった。
実は、3月に一時帰宅したときに、自宅の書籍を二千冊ほど処分していた。それで、書棚に関しては多少の隙間を作ったつもりでいた。ところが自宅の整理は書籍を解決すれば大方は片がつくと考えていたのは大間違いだった。
引っ越し荷物が到着してから一月以上経っても自宅のなかは混乱したままである。特に衣類がひどい。自宅と単身赴任先との二重生活は予想以上に荷物を増やしてしまっていた。春先や秋口に羽織る薄いブルゾンなども三、四着貯まってしまったし、セーターの類も多すぎる。それらを収容するタンスや部屋に付随したクローゼットが何カ所もあるのに、一カ所で収容できず、必要な衣類を探して一、二階を往復したり、まだ片づいていない段ボールをひっくり返したりと毎日衣類を求めてさまよう難民状態なのだ。
大物としては、不要になったベッドの処理に困っている。子供たちが居なくなったあとに残していったベッドが二台あって、この処理を市のセンターに依頼したところ、引き取り要望が多すぎてもう倉庫に空きがないと断られてしまった。リサイクル業者は三台ないと受け取らないと言うし、あとは市の粗大ゴミに出す他がないということになる。粗大ゴミにするには、まだ新しいし使えると考えると不憫な気持ちになって、一部屋その二台のベッドに占領されたままでいる。
会社員時代に溜め込んだ書類なども捨てる時期を逃したまま、書庫や書斎などに積まれている。そういったものを含めて、ゴミとして、あるいは資源として、商品として処分するのは、かなりの時間と労力が必要になる。
やっと気づいたのだ。自宅を整理することとは、過去を捨て去ることであると。いかに過去にしがみついて不要の物品や思い出の品を溜め込んでいたことか。会社員を卒業したときにこそ、最初の整理をしなければならなかったのに、それを怠ったために第一と第二の人生の整理がいま一度にのし掛かってきたのである。
まだ「終活」とは呼びたくないが、溢れるほどの荷物このままにして残されたら、家を継ぐ子供には大いに迷惑なことだろう。毎日少しでもと、整理に励む日々である。