中原中也の京都 | honya.jp

ポテトサラダ通信 23

中原中也の京都

校條 剛

 中原中也の詩を好んで読んでいたのはもう随分前、前途が見えない青春時代のことですが、その詩の断片いくつかが記憶の片隅にいつまでも貼りついているような気がします。

 さよなら、さよなら!
   あなたはそんなにパラソルを振る
   僕にはあんまり眩しいのです
   あなたはそんなにパラソルを振る

 中也の詩にはなんともいえぬ可笑しみがあって、ユーモアの欠けた詩が苦手な私には魅力がありました。天性の資質でしょうが、音楽性というか、リズム感もなかなかのものだと思います。
 正確な引用ではないですが、「ほらほら、これが僕の骨、生きていたときには、これが食堂のお浸しを食べていたと考えるとおかしい」とか、「ああ、家が建つ、家が建つ、僕の家ではないけれど」なんて、ほんとに可笑しいでしょう? 今でも建築中の家のまえを通る時など、「ああ、家が建つ、家が建つ」と胸中で呟いてしまう私がいるのです。
   
 中原は太平洋戦争が始まる前に亡くなっていますから、戦後の世界どころか治安維持法の暗い世相も知らないで死んだくらい昔の人なのです。だから、生きていたときの中也が観ていた風景や出入りしていた場所を当時の姿を彷彿させる状態で見出すことは難しいです。とくに空襲で全部焼けてしまった東京では困難です(後述するが、福島泰樹氏は『中原中也 帝都慕情』でトライされています)。中也が最後に住んだ鎌倉は、幸い空襲に遭うことが少なかったから、小林秀雄と一緒に訪れた妙本寺もかつての姿のままに残っています。だが、二、三年まえに田村隆一さんの墓参で訪れたときには、小林と中也が二人で見とれた境内の海棠(かいどう)の樹はすでに枯れて、新木に植え代わっていました。

 しかし、京都という町は1000年の都というように、時空を超えた幻想を見させてくれるようなところがあります。いや幻想ではなく、現実であるところが京都の凄いところなんですね。
 地元民にしか読めない「あさひらいふ京都」というタブロイド判のフリーペーパーがあります。朝日新聞の購読者だけが読める新聞です。その第一面に普段の本紙では読めないような歴史的な内容の記事が載ることがあるのです。本紙のほうが歴史家の記述だとすれば、タブロイド判には、郷土史家の視点から語られる内容のものが多いのが嬉しいです。
 今年の4月、この「あさひらいふ」に立命館中学に編入するために京都に来た中也が、古本屋で運命的な出遭いをする話題を取り上げています。出遭いの相手は一冊の詩集で、高橋新吉の『ダダイスト新吉の詩』であり、この逸話はあまりに有名なので、それだけだとどうということではないのですが、中也が入った古本屋が丸太町橋の袂にあったと書いてあることに興味が惹かれました。丸太町橋の西側か東側かいまはその本屋はないので、分からないのですが、西側なら丸太町通り南側のスポーツクラブ「KONAMI」に私は通っていて、一階にある「Fresco」も行きつけのスーパーです。つまり、日常的に行き来している地域が百年まえに、中也が歩いていた場所だと想像すると、なんとも不思議な気持ちになります。
「あさひらいふ」は、中也と離れて、さらに過去の歴史的な事実を教えてくれます。私はいつも大学へ通勤するとき、中也が立ち寄ったと思しき古本屋の手前を左折して北へ向かうのですが、その路地は二股に分かれています。中也の昔も路地の形は変わっていなかったようで、今も西三本木通り、東三本木通りと名前が付いています。この二つの通りは、江戸時代の中期には、「旅館や料亭が軒を並べる花街」として賑わっていたといいます。往時の賑わいはとっくになく、有名な花街が六か所ある京都でも知っている地元民がどれだけいるでしょうか。今は、完全に住宅街ですから、花街らしき跡を偲ぶよすがはないように見えますが、どっこい東三本木通りのなかほどに元料亭「吉田屋」跡というのがあるのです。なんと、この場所は幕末期桂小五郎と芸者幾松のゆかりの場所ということです。さらに、なんとなんと、この料亭跡が立命館大学の創設の地であることも道路際に建てられた碑文で知ることができます。いやはや、これが京都というところの凄さです。場所の記憶の一つ一つが一流の歴史を秘めているのです。

 中也から話題が少しそれてしまいましたので、また戻そうと思います。今度は、飲み屋のことです。四条通の高島屋まえの小さな路地を入るとすぐに「柳小路」という看板が目につくことでしょう。この小路の右側に「静」という一文字の居酒屋がひっそりと佇んでいます。ここは中也が京都にいたころは「正宗ホール」と呼ばれたそうで、さすがに外見は変わったものの、内部の壁の一部は中也が訪れていたころと変わっていないといいます。私は店前を何度か通っただけで、まだ入ってみたことはありませんが、大正の初め、中也が観たかもしれない壁が残っているのはたいしたことです。いや、なかなかですよねー。

 いまはネットの時代ですから、中原中也が京都時代に何度も変わった下宿の跡を全部調べて訪ねることができます。たとえば「東京紅團」というサイトがネットにアップしている「中原中也の世界を巡る―中原中也の京都を歩く」では、中也が下宿した七か所を訪ね歩いて、地図も載せています。中也が京都にいたのは、1923年3月から1925年(大正14年)の丸二年間だけなのに、七回も移っているのですね。私も北野白梅町近くの、長谷川泰子と同棲し、男女関係になった下宿があった場所を訪れたことがあります。上七軒の中華「糸仙」を予約していて、その時間まで余裕があったので、ついでに歩いていっただけのことですが。
 先ほど書名を出した『中原中也 帝都慕情』は帝都、すなわち東京における中也の足跡を、歌を作りつつ歩いた一種の紀行エッセイですが、著者の福島さんは、京都の下宿の一つをわざわざ訪ねてきています。
 それは中也最後の下宿で、唯一当時の姿が残っている(さすがに、一般家屋で当時の原型を留めている家は非常に少ないです)場所です。その家は二階の窓が一つしかなく中也も泰子も「スペイン窓」と呼んでいたらしいのです。その窓を観たくて、歌人は「寺町今出川一条目下ル中筋角」のスペイン窓を探します。<写真を撮るべく「スペイン窓」に近づいてみると、窓にはサッシが填めこまれていた。>
 
 中也死に京都寺町今出川スペイン式の窓に風吹く  (福島泰樹)

 私はまだこの窓を観たことがありません。