いつも、映画が教えてくれた | ポテトサラダ通信(校條剛) | honya.jp

ポテトサラダ通信 16

いつも、映画が教えてくれた

校條 剛

 今年に入っていから、映画を何本か観ました。時間の余裕があるように見えますが、そういうわけではありません。ほとんど夜9時くらいからの、ナイト上映で観ています。
 というのは、私が単身で暮らしているワンルームが、京都市役所の西北すぐの場所なので、三条のMOVIX京都に12,3分で行けるからなのです。ですが、「沈黙」のような上映時間の長い映画ですと、終わるのが23時半とかになります。結構、大慌てて戻り、シャワー、歯磨きと済ませて布団に入るのです。
 それでも、夜の映画館通いがいいのは、まずはガラガラに空いていること。さらに、終映後の余韻に浸って、一歩映画館を出た途端、昼間の雑踏と雑音に気分を壊されることが普通ですが、その害が少ないことも理由に上げてもいいでしょう。
 
 さて、年が変わってから観た映画ですが、「ミラノ・スカラ座」「湾生回家」「沈黙」「マリアンヌ」「この世界の片隅に」という順番になります。このうち、実は「湾生回家」は、神戸・元町まで出かけて観ていますし、「この世界…」は、昼間の鑑賞でした。
 ドキュメンタリー作品「ミラノ・スカラ座」は期待外れの作品でしたので、ここでは語りません。それ以外の4作品はそれぞれもう一回観ても損はないと思える出来栄えでした。小説もそうですが、映画も二度、三度と観ると、小さな部分に込められた作者のメッセージに初めて気が付いたり、セリフの綾が理解できたりします。
 DVDで前半部だけ見直した「パッセンジャー」(アントニオーニ監督作品。日本のタイトル「さすらいの二人」、昔から「勘弁してよ」タイトル。原題は『The Passenger』なので)が記憶とあまりに違っていたので、驚いたのはつい最近です。以前はどこを観ていたのか? と自分で呆れてしまいました。
 小林秀雄の言葉なぞ引用したくないのですが、「人は見たいものしか見ない」というのは当たっているようです。少なくとも、その時は見ていても、記憶には「覚えたいものしか覚えない」という残り方をするようです。

 いつもの癖で、また脱線してしまいました。「ミラノ…」以外の四作について、忘れないうちに印象に残ったことを述べたいと思います。

 神戸元町商店街にあるその名も「元町映画館」で観た「湾生回家」では、日本の台湾統治の時代が50年も続いていたという事実に驚かされました。台湾へ行きたいと思ったことはこれまでありませんでしたが、この映画を見て、台湾人の人情の深さに打たれ、ぜひ彼の地に行ってみたいと思うようになりました。日本人の母と台湾人の父を持つ娘と孫娘が、寝たきりの母親に代わって、母親の実母のお墓を探し出すエピソードのなかで、娘(といっても50代でしょうか)が鼻にチューブを差し込んで、言葉を話せない母親の耳元に口を寄せ、お墓を見つけた報告をするくだりには胸が熱くなりました。母親のために娘も、孫であるそのまた娘も一生懸命です。大げさにいうと、命がけで「愛」を表現しています。こんな家族の姿は、もう現代日本では見ることができないでしょう。
 映画のなかでなんどか流れる唱歌「故郷」、例の「うさぎ追いし」ですが、この映画ではまさに、まさにリアルな「ふるさと」なんですね。満州に取り残された女性たちの運命を取り上げたNHKスペシャルのドキュメンタリー「忘れられた女たち――中国残留婦人の昭和」(1989年)を観たときににも望郷の気持ちの激しさを思い知らされました。満州に残された女性たちの一部は、日本人の血を引いているというだけで、中国人の家族を捨ててまで日本に戻ってきます。、故郷とか故国というのは、そんなにいいものなんでしょうか? それほど帰りたいところなのでしょうか? しかし、映画のなかの彼ら彼女らの望郷の念に触れてみると、疑問の抱きようもなくなります。本当にいいものなんですね。心の奥深くに本能的に帰趨意識が埋め込まれているのでしょう。
 一方、台湾で生まれ、幼少期を過ごした「湾生」たちは、その土地の空気と人情に馴染んでいたわけですから、より一層「ふるさと」感が身近なのです。
 「ふるさと」の持つ牽引力の強さの感動を引きずって映画館を出た私は、自分自身の故郷は、どこにあるのか? と問うてみるしかありませんでした。その足で、私が向かったのは、阪急六甲駅です。私が少年時に三年未満過ごした小学校のあたりから始めて、住んでいたJR六甲道近くの社宅跡をめぐってみました。しかし、もう自分のなかではそこは故郷ではない気持ちがしたのです。なぜなら、懐かしいという感情が湧き起こってこないからです。「湾性」の皆さんとはえらい違いです。台湾を故郷と呼べる湾生たちが少し羨ましくなりました。

 「沈黙」は、私が文芸編集者だったころ担当していた遠藤周作さんの原作です。かつて篠田正浩監督で映画化され、それも観ていますが、絶海の海を見下ろすショット以外の記憶はなく、おそらく満足する出来とは思えなかったのでしょう。篠田氏に思想的な深さが足りなかったせいであったかもしれません。ポルトガルの宣教師の苦悩を監督も一緒に抱き、一緒に苦しまないと、この原作の神髄にまで達することは難しいでしょう。
 遠藤さんが生きていれば、90歳は超えていますが現代では存命でもおかしい歳ではありません。この映画を観たらどんなに喜んだことでしょうか。
 スコセッシ監督は、「タクシー・ドライバー」が最高作で次が「レイジング・ブル」、その後はずっと会心の作品がないという記憶でしたが、フィルモグラフィーを調べると「シャッター・アイランド」もこの人の監督作であることが分かりました。「シャッター・アイランド」は原作を読んでいなかったせいもあり、構造の二重性に見事騙されました。なかなかの衝撃でしたが、一種のドンデン返しに驚かされた裏には、ちゃんと人間のドラマが描かれていたという基本構造が存在したわけで、やはり優れた映画と言えると思います。
 スコセッシ監督は、ドキュメンタリーもたくさん監督しています。ボブ・ディランの裏方バンドでもあった「ザ・バンド」の最終ステージを追った「ラスト・ワルツ」が好きでした。ジョージ・ハリスンの生涯を追ったドキュメント・フィルムを逃したのは惜しかったです。
 「沈黙」は力作です。脚本も役者も上出来だと思います。ただ、これは原作の弱点でもあると私は考えているのですが、狂言回しでもあり、主役の一人でもある「キチジロー」がテーマ出しに都合のいいキャラクターでありすぎませんか。遠藤さんは、エンタメ方面でも活躍しました。ご存知でしょうが、エンタメの基本は誰にでも分かる「類型」を基本とすることです。しかし、エンタメを書きながらもエンタメを軽んじていた氏の純文学作品のなかにも「類型」がときとして顔を出します。最後の純文学作品『深い河』などは類型の人物だらけではありませんか。その点については、純文学の批評家が言わないことなので、私が(偉そうに)指摘しておきます。
 
 「マリアンヌ」の原題は「Allied」です。同盟というような意味でしょうか。外国のタイトルを日本語にそのまま移し換えるのが難しい見本のようなタイトルですが、それにしても「マリアンヌ」では魅力がないと思いますね。この映画で一番に感動したのは、マリアンヌが何気なくマックス(ブラッド・ピット)の問いに答えるセリフにありました。モロッコのカサブランカに潜伏しているフランス・レジスタンスのスパイ・マリアンヌが、ナチやヴィシー政府の関係者たちと親しくなる秘訣を聞かれて、「嘘のない感情で接すること」と答える、そこにこの映画の最大の鍵があると思いました。一緒に組んでドイツ大使などを撃ち殺したマックスとロンドンに逃げてから結婚し、子供もできます。本当はドイツの二重スパイなので、特殊戦闘部員のマックスのことも結局裏切らざるを得ない状況に陥っていくわけですが、「夫と娘を愛している」そのことには嘘がなかったということ。「嘘のない感情で」というマリアンヌのセリフがそこでよみがえるのです。
 ロンドンは、フランスを占領しているドイツ軍から四六時中空襲に遭います。空襲と空襲の合間に、マックスの家でホームパーティが開かれ、料理と酒がふるまわれ、たくさんの人たちで賑わいます。にわかカップルも何組か誕生して、抱き合ってキスをしたりしています。「この世界の片隅に」と比較してもわかりますが、イギリスでもアメリカでも、こうした非常時のさなかでも、苦難から少時でも気持ちを明るくしようと人々はパーティに興じます。転じて、日本では男女が往来で手をつなぐことさえ許されない禁欲生活を強制されたのです。戦争に負けた理由の一つは為政者や軍隊、警察などの形式主義、厳罰主義にもあると、マックスの家でのパーティで気づかされます。こうした禁欲主義は、昭和天皇が亡くなったときの、お祭りの自粛などにも色濃く表れていて、日本人の性質は根本的に変わっていないのだと私は断言したいですね。

 さて、最後の「この世界の片隅に」です。アニメは昨年の「君の名は。」でこのジャンルの完成度の高さに感嘆した覚えがありました。絵の精密さでは、「君の名は。」には及ばないのですが、たとえば小さな姪の手を引いて歩いているときに、主人公のすずが姪と右手の先を時限爆弾の爆発で失う件の画面処理のアイディアには感心しました。
 私は大学で文章表現、ことに小説の表現について教えているわけですが、学生たちにいつも言っていることがあります。大きな世界やテーマを取り上げるときに、物語自体を大きくしないようにということです。小さな小さなエピソードや描写の積み重ねが結局は大きなテーマを描くときに役にたつのだと。そういうサジェスチョンをするときに、まっさきに例として挙げていい作品でした。
 それと、主人公を少し「のろま」にすることも物語を推進するときに有効であること。この作品で私は主に物語る「手法」についてあらためて考えさせられました。
 戦争中の日常生活の細部が丁寧に描かれており、通り一遍の反戦思想をもとに作られているNHKの朝ドラでは表面的な主張になりがちなのですが、声高な主張は避けて、日常の細部に分け入ることで、自然戦争に対する態度を鮮明にしています。一般人の小さな声が拡声器をつかったような「戦争反対」シュプレヒコールよりもはるかに心にしみてくるものであることを教えてくれます。
 まあ、この映画を安倍総理や日本会議のメンバーが観ても感銘を受けないことでしょうね。「人は見たいものしか見ない」やはり至言です。