フェイスブックの渡辺隆司君 その2「ポートフォリオ」 | ポテトサラダ通信(校條剛) | honya.jp

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フェイスブックの渡辺隆司君 その2「ポートフォリオ」

校條剛

「フェイスブックの渡辺隆司君・その1」でネット検索では彼の名前は出てこなかったと述べましたが、実はウィキペディアが作成されていて、おおよその経歴が示されていました。
 彼が残したフェイスブックの記述と併せて見ると、早稲田の大学院を終えたのは学部卒業から六年あとの1979年で、院生のころから短大や大学の非常勤講師を始めています。さらにフランスの給費留学生試験に受かり、パリのソルボンヌ大学に三年留学します。帰国が1982年。ソルボンヌ大学は当時パリ第四大学と言ったのでしょうか。ソルボンヌは最近の名称だとwikiにはありますが、私の学生時代からソルボンヌと言っていたと思います。いずれにせよ、彼は留学を含めて、学業を終えるまでに、学部卒業から九年を要していて、帰国したときには32歳になっていたのです。
 フェイスブックを始めたのが、2012年だとすると、63歳くらいからということで、かなり晩年になってからです。どういう理由で始めたのかは述べられていませんが、フェイスブックへの投稿の多くが海外の美術の写真で埋められているので、撮影したそれらを私蔵しておくだけではもったいないと思ったのでしょうか。大学で教えている学生たちに見せたかったのかもしれません。事実、有志の学生たちを連れて、フランス、イタリア旅行などもしていますので、彼が日本の大学で目指した「良き語学教師」であることの補足的な役割を兼ねていたのかもしれません。

 フェイスブックに現われた彼の半生を項目別に考えてみたいと思います。
・フランス;文学、語学、料理(食事)、フランス的なものすべて
・ポートフォリオ;日経新聞を読んでいるフランス文学者は珍しいかもしれません。フェイスブックのなかでポートフォリオの大事さをかなりの長文で説いています。
・海外旅行;美術館、土産品。フランスはもちろん、イタリア、台湾には何度も訪れています。イタリアではヴェネツィアが一番のお気に入りで、十回以上行っているようです。台湾も多いですが、どこがそれほど気に入ったのかは分かりません。
・ガン闘病;初めてガンの宣告があったのは、2016年ですから、二年近くは持ちこたのでした。亡くなる半年まえにはお気に入りのフランスの何か所か、イタリアのローマ、ヴェネツィアを旅行しています。肺から骨に転移したようですが、リンパや臓器への転移ではなかったので、旅行が可能だったのでしょうか。

 フランスあるいはフランス的な環境は彼のほとんど全生涯を貫いた重要な要素だったことでしょう。「自分は贅沢をしてきた」と回顧していますが、その一つが食事です。
 毎年のようにフランスを訪れて、帰国するまえにスーパーマーケットに寄り、食材を大量に購入し、毎日の食卓に並べていたようです。昼、夜は分かりませんが、毎朝の食材は一定していたようで、最晩年の入院時に便秘になり、下剤を飲むはめになったときも、退院と同時にフランスで仕入れたいつもの食材に変わった途端に腸の具合が回復しています。習慣とはいえ、フランス的な要素が身体に染み込んでいるのです。渡辺君は最後の投稿で次のように書いています。

〈2018.1.31 家に帰ると、朝、目が覚めると温かいコーヒーの匂いがする。焼きたてのトーストの香りが心地よい。何よりいいのは普段、家で食べているフランス製のバターです(写真)。フランスのどこにでもあるスーパーで買ってきたもの。海の塩の塊が入っているものです。病院では明治のマーガリンでしたから、嫌でしたけれど、これならすーっと食べられる。小松菜のおひたしなどが出ることもない。生ハムと卵、フルーツです。蜂蜜も病院で出ることもあったが、やはり慣れたプロバンスのもの(写真)は食べやすい。最後にヨーグルト(写真)。病院で出るときはカップ入りのもの。家では、ミックスナッツ、ドライフルーツ、フルグラなどが入っている。慣れているものばかりなせいか、噛んだ時の触感が快適です。便秘はすぐに解消しました。〉

 この一文には小さなタイトルが付いていて〈私は自分で思う以上にわがままで贅沢だった。〉と。
彼はすっかりフランス料理と食材に「慣れて」いました。毎朝の食卓にフランスのバターや蜂蜜を並べるのは、贅沢という程のことではないかもしれませんが、慣れてしまうとそれ以外は受け付けないという感覚には納得します。
 2017年のフェイスブックでは、パリの馴染みのレストランでの食事について、次のように述べています。
〈パリでの夕食 鴨コンフィとムール ワインとコーヒー 慣れた味はいいです。〉

 食事を例にとりましたが彼の生涯を貫いているのは、フランス的な生活と精神と教養への同化意欲です。しかし、生涯「語学教師」として終わった彼には、フランス文学について講義する場所は与えられなかったようです。それについては、以下のように述べています。

〈1983年にフランスから帰国したときは「本物を伝える」でした。日本の大学やフランス文学会で話されていることが主として「大学で職を得るため」の言葉に過ぎないと感じられたのです。フランスで話されている言葉とまったく違ったからです。
わかりやすい例をあげると、僕が当時研究していた作家についての研究会が僕の指導教授のリーダーシップで2か月に1度ぐらい、ユルム街の学校で開かれていました。何の利得もない研修会ですが、小さな教室にヨーロッパ中から専門家が集まってきて、最先端の議論をするのです。そこでの議論のレベルがすごかった。日本ではそれほど著名ではない(最新流行の論文を発表しているわけではない)中堅の研究者がプルーストの作品などを当たり前のこととして読みこなし、それを前提として話していたんです。「プルーストって難しい」などと言う人は一人もいませんでした。
さらにCollege de Franceという学校もありました。僕はそこでロラン・バルトとミシエル・フコー、それにクロード・レヴィ=ストロースの授業も受けていました。そこで実感したのは、バルトとフコーの文章は彼らの息遣いそのものだということでした。とりわけバルトの流れるような文章は、彼のゆったりと歌うようなリズムから来ている、そしてフコーの叩き込むような話しぶりは、あの文章そのものだと思いました。
僕が「本物」と言っていたのは、言葉のこうした手触りの感覚だったのです。勇んで帰ってきたものの、日本の大学でこうした「本物」の感覚を伝えることはあまり成功したとは言えません。〉

「本物」を身に着けて帰国した彼が自分に相応しい地位をうまく得たとは思えません。日本の大学の「ゆるさ」がフランスで教養のシャワーを浴びてきた彼のような「闘士」を受け入れるために公平な門口は用意されていなかったのでしょう。表向きは公募であっても、教授たちによって選ばれる専任教員は、たとえば学科の有力教授の弟子筋の人物が優先されるなど、恣意的な採用がされてきたからです。
 渡辺君もそうした「本物」が欠如した日本の大学の悪習によってフランス文学科の専任となる道を封鎖された可能性があります。そこで、おそらく怒りを内在させながらも、彼はあっさりと語学教師の道を歩き始めます。しかも、文学専攻は諦めて、非常勤の語学教師で生涯を終わるのです。

〈最後に残ったのは「学生たちが自分で考える」「僕はそのお手伝いができればうれしい」ということでした。それが現在です。「本物を伝える」から「自分で考える」ようにまで、僕は40年かけたことになります。長いようで、たったこれだけの教師生活でした。〉

 自死したと最近知った私の知友K君のことも同時に思い浮かべます。K君は慶応大学の仏文科から院に進みましたが、文学部に残れなかったのでしょう、法学部のフランス語教員で一生を終えます。しかも、どういう気持からか、准教授へのランクアップも目指さずに退職まで助教(専任講師)という身分で過ごしたようです。
 私がパリに一週間滞在した1990年の10月、サバティカルという公認休暇でパリに住んでいたK君には毎日パリを案内してもらいました。夕食や昼食も基本一緒に過ごしたのです。彼の内心の声は聞き取れませんでしたが、私の推測では文学部に残れなかったことが彼を厭世的にしたのだと感じていました。それも、彼の存在が無に帰してしまった今は知る由がありません。
 渡辺君の場合はフェイスブックという手がかりがあるので、まだしも推測が可能なのです。
 さて、渡辺君が癌という診断を受けたのは先に述べたように2016年のことです。

〈 3月半ばに癌が発見され、治療に専念するため、4月からの仕事をすべて退職しました。
つまり、3月まで普通の収入があったものが、4月からは給料はすべてストップしました。
突然、ほぼ無収入になったわけです。
「じゃあ、どうやって生活していたの?」と疑問に思われる方々も多いでしょう。
「生活費は大丈夫なのかな?」と心配された方々もいらっしゃると思います。
それは問題ではありませんでした。お金の苦労はありません。〉

 渡辺君は大学とカルチャーセンターの講師で生活費を稼いでいましたが、少し大学の内情を知っている身として、非常勤講師の報酬で家族を養っていくのは大変なことと分かっています。週に三十コマなどというたいへんな数の授業をこなさなくてはなりません。フランス語を教えるわけなので、英語ほど需要はありませんが、我々の若い頃はフランス文学科がまだ人気があったくらいですから、今よりも職場には恵まれたのかもしれません。
 フェイスブックのなかで彼がもっとも長文で説明しているのが、生活資金をどうやって築いてきたかということです。私も疑問に思っていましたが、彼自身でその疑問に答えています。癌にかかったときには、すでにかなりの資金が貯まっていたということ、それは若い頃から資産形成の努力を怠らなかったからだということでした。そして彼は我々に「金融リテラシー」を身に付けろということを勧めるのです。その教えは、家計簿ではなく「ポートフォリオ」を作成しなさいということでした。 
 渡辺君がいつから金融リテラシーを意識し始めたのかは分かりませんが、比較的若い頃からと判断できます。三十代でポートフォリオを作り始めたというようなことでしょう。給料は安サラリーマンレベルと述べているのは、誇張ではなく実際そうだったのでしょうが、地道に投資を続けていく間に、晩年はかなりの資産を形成していたと思われます。
 自分の経験からくるこの「金融リテラシー」の大事さをフェイスブックで懇切丁寧に説いているのです。

〈ただ、お金に支配されず(マネーに従属せず)、自分で自分のお金をある程度コントロールするための方法を獲得する近道はあります。
以下の2つです。
・自分の資産状況を正確に把握する。
・自分なりのポートフォリオを作成する。
たったこれだけです。
(中略)

❍ 自分のポートフォリオの作成
ポートフォリオというのは自分の資産の配分状況です。
具体的には以下です。

● 金融資産
 ・リスク資産:
国内・海外の株式
国内・海外のReit(不動産投信)
海外の債権(為替リスクがある)
 ・安全資産
  預貯金
  国内の債券

他にも金やプラチナなどのコモディティ、外貨預金、それに不動産の現物などもある。
このように、資産と言ってもいろいろな種類があります。
「自分の資産をどういう種類の資産に配分するのかを決める」のが「ポートフォリオ作成」です。「どういうポートフォリオがいいのか?」という質問に対する正解はありません。〉

 ほんの一部ですが、ポートフォリオとはどういうものなのかという辺りだけ、引用しました。家計簿を付けることも大事なのでしょうが、渡辺君は日々の支出に関しては大雑把に考えていたようです。使いすぎている月の後半は節制するというようなことですが、家計簿は資産形成にはほとんど寄与しません。
 渡辺君がなぜ自助努力で資産を形成することにこだわったのかは、次のように述べています。

〈私は小さいときから人に命令されるのが嫌でした。「人に支配されたくない」、「他人に従属する状況にはなりたくない」と思い続けていました。お金についても同じです。(中略)私は貧乏であることは苦ではありませんが、他人に従属することだけは絶対に嫌でした。そこで、その後何年か、マイクロソフトマネーのグラフを眺めながら、「経済的に人に従属しないですむ状態に持っていく」ため、さまざまの努力をしました。そのプロセスで金融リテラシーというものを学んでいったと思います。〉

「人に命令されたくない」という言葉に激しく同意します。渡辺君がフランス留学から帰国し、日本の大学で職を得ようとしたときに、人脈中心の日本の採用基準に阻まれて、専任教員になれなかったのではと想像していたのですが、ひょっとすると「従属関係」に陥れられることを避けたかったからかもしれません。非常勤講師と専任教授の両方を体験した私には、組織の網にがんじがらめになる専任と違って、授業運営だけを考えていればいい非常勤講師の気楽さはよく分かるのです。

 渡辺隆司君について長く語ってきましたが、そろそろ最後の話題に移ろうと思います。海外旅行です。彼がフェイスブックでもっとも分量を割いて投稿しているのは、海外のとくに美術館の絵画や彫像の写真です。
 しかも、同じ美術館を何度も訪れているようです。美術に関する知識が豊富なので、一つの絵画を見ても、歴史的な背景などが滲みでています。たとえば、ヴェネツィアのアカデミア美術館。私も二度行きましたが、とくに二度目はほとんどの絵画が宗教画であることに閉口して半分ほど見ただけで退散してしまいました。それに比べて、渡辺君は何十枚という写真を撮って感想を述べているのですが、気持ちがその絵に入り込んでいます。それだけ、絵画についての教養が厚いのです。
 フラーリ教会の有名な宗教画「被昇天のマリア」(ティッツィアーノ作)ですが、私が行ったときには、祭壇の奥のほうで、暗くてほとんど見えなかったのが、彼の撮影ではくっきりと映ってるのは、撮影のテクニックというより、撮影に相応しい場所と時間を彼はよく知っていたからなのでしょう。
 ローマやフィレンツェ、またパリの美術館でもたくさんの画像をアップしています。夏休みには、学生たちを連れて、パリやヴェネツィアを訪れています。何人もの学生たちとテーブルを囲んで、食事をしている光景がアップされていました。渡辺君のようなフランス語が出来て、イタリア語も多分かなり喋れて、ヨーロッパ文化についての教養が豊かな教師に連れられて旅した学生たちは幸せです。
 最後のフランス行きとなった2017年の9月に南フランスのサント・ヴィクトワール山の麓に住む年来の友人宅に訪れて家族と一緒に食事をする一枚も記憶に残ります。この半年後に渡辺君がこの世から去ってしまうとは彼らは予想もしなかったことでしょう。
 渡辺君のアジアの国でのお気に入りは台湾です。ここでも、たくさんの画像をフェイスブックに上げています。お土産も多量に買い込んで帰国していたようです。どうして、台湾に何度も行っているのか、その記述はなかったように思います。フランス的、ヨーロッパ的な要素がまったく感じられない国ですから、大きな謎として残ります。

 癌闘病の記述については、ここではもう取り上げません。ご興味のある方はフェイスブックで検索されるといいと思います。
 大学紛争の時代でほとんど授業がなく、同級生同士、お互い知り合うチャンスが少なかったために、渡辺隆司君との縁はまことに薄いものでしたが、もしも学生時代に濃密な関係が生じていれば、友人からの感化を受けやすい性格の私に多大な影響を与えてくれたのではと、それを思うと残念でなりません。