にわか京都人・その後| ポテトサラダ通信(校條剛) | honya.jp

ポテトサラダ通信 35

にわか京都人・その後

校條 剛

 前回は、私の五年ぶりの著作『にわか<京都人>宣言』が書店の休業に遭って苦しい船出になったことを述べた。それからまたひと月以上経ってしまった。この間、毎朝、毎昼、毎夕、コロナ関連のニュースばかりをテレビで観てきた。思えば、京都の単身赴任生活の時期にはテレビはまったく観ていない。私の本の読者の方はご存じだろうが、テレビ受像機を自室に備えていなかったので、唯一スポーツクラブ「コナミ」でウォーキングマシンに乗っかっているときだけ、小さな液晶画面で午後のニュースショウなどを観ていただけであったのに、現在は「Youは何しに日本へ」を夕食を摂りながら観て、以前より愛好していた「ガイアの夜明け」だけではなく、「ポツンと一軒家」なども録画しているのだから、えらい変わりようではある。

 それはともかく、書店事情については、営業再開のところが増えてはきている。地元の高幡不動駅啓文堂書店では、店長が四十冊も取り寄せて、ポップを付け、平積みにしてくれた。ただ、やはり京都のほうが売れ行きは好調のようだ。私が勤務していた大学の学生I君は、大垣書店高野店でバイトをして一年以上になるが、ときどきメールで連絡をくれる。それによると、高野店では店内二カ所で私の本を平積みしてくれていることもあり、一冊も売れない日はないそうだ。バンバンとは言えないにしても、I君がレジに立って、バーコードを読み取るたびに、私の顔写真が目に入って、懐かしい思いがするという。店長Wさん、I君に感謝である。
 大垣書店高野店はいわゆる路面店で、ショッピングセンターとかデパートに入っているわけではないので、営業できるのだが、大垣書店の他店舗では休業が続いている大型店が何店もあるようだ。それらの店舗も早く再開してほしいと願う。
 
 さて、東京に戻ってから一年以上が過ぎたわけだが、『にわか<京都人>宣言』で書いていることと事情が変わってしまったことがある。それは、糖尿持ちである私の野菜の調理法である。
 拙著では、野菜を夏は生で、冬場は炒めてという風に書いていると記憶する。スーパー「LIFE」で購入したテフロンのフライパンをあらゆる局面で利用していたので、野菜もそのフライパンで炒めることが多かった。このフライパンは、あまりに重用しすぎたのか、テフロンがはげて本来の務めが果たせなくなってしまったので、東京では使っていない(でも、長年の相棒なので捨てられないのだ)。
 代わりにというか、いま盛んに活用している鍋があるのだ。中華鍋である。この鍋がいかに有用であるか、東京に戻ってきてやっと分かったのである。

 自宅に大中と二つも中華鍋が仕舞ってあった。中華鍋をどうして二つも買ったのか、いつごろ買ったのかは、妻に訊いてみても思い出すまでに至らないのだが、大きな方は、妻と二人で横浜の中華街まで足を運んで購入したものらしい。料理を食べにいったついでに、買い求めたものだろう。鍋と一緒に、この鍋での調理に不可欠な杓子も買ったという。一切、そのときの記憶は蘇ってこないが、妻ははっきりと覚えていると。
 しかし、この二つの鍋が我が家のコンロの上に置かれるチャンスは少なかった。その理由は、当時は現在ほど野菜を食べる生活ではなかったということだろうか。

 京都ではほとんど一人飯だったので、外食するときにはカウンターのある店が気が楽だった。さらに、野菜が豊富に食べられるという理由もあって、中華を好んでいた。自宅マンションから歩いて15分くらいだろうか、三条大橋西側の川沿いに建つ独立家屋の「珉珉」にはよく通ったものだ。
 二階建ての店で、カウンター席は一階に数席あるのみである。店内に踏み込んで、カウンターが空いていると、嬉しかったのは、別の理由もある。そこに座ると、目の前が調理場になっていて、四人ほどの料理人が、中華包丁やお玉を片手に忙しく動かしているのを観るのが楽しかったのだ。
 とりわけ見事だったのは、鍋を使う料理人で、お玉を魔法の杖のように自由に、奔放に扱って、一品数分で仕上げていく。休む暇なく、つぎつぎに注文の料理を炒めるのだ。
 まず、油を鍋にいれ、ショウガやニンニク、次に肉を入れ、その次に野菜を放り込み、さらに炒める途中で、合わせ調味料をひょいいとすくい取って、火の通った具材の上に振りかける。とろみを出すために、最後に溶いた片栗粉を入れて、仕上げに入る。ときに二人分、三人分を一緒に作るのは、当然だが別々の客の注文を頭の中で計算して一緒に作っているのだ。熟練していなければできる技ではないだろう。観ていてほれぼれする手際だった。
 何度も通っていると、料理人のなかにランクが付いていることが分かってくる。野菜ばかり切っている人は、一番下っ端で、鍋を使う人はベテランのチーフなのだということが見えてくる。
 鍋を使ったあとも注目である。まだ熱々の鍋底にざっと水を入れて、ササラという鍋洗いの道具でじゃじゃと油を洗い流す。その鍋を休ませることなく、すぐまた火に掛けて、同じ手順で別の調理に取り組むのである。この連続した動作は止むことがない。

 東京の中華鍋に話を戻すと、たとえば、キャベツである。京都では、キャベツは大きめに切ってから水洗いし、スピナーで水を切ってから、テフロンのフライパンで炒めていた。いちいち水洗いし、水切りもするので、この手間にうんざりすることがよくあった。今は、キャベツは一番外側の葉っぱだけ洗うが、中の身のほうは、ざく切りにする。それを、キャノーラ油を敷いた中華鍋に放り込むだけである。
 他の野菜も似たような手順である。小松菜やほうれん草は、水洗いはするがもうスピナーで水を切ることはしない。切った菜っ葉を盛ったザルを一二度降って、多少の水分を切ると、すぐに中華鍋に入れる。中華鍋はコンロの火力を鍋のなかに集中させるので、野菜が早く炒められるのである。
 野菜の準備、炒める手順、ともに最小の時間で行えるのが、中華鍋の利点だった。この鍋を一つ京都に持っていれば、もっともっと楽に野菜炒めが作れたのにと思うのである。

「珉珉」の調理人達のように、中華鍋は使ったらすぐに、ササラで洗うのがいい。ササラは、かなり以前、京都の三条大橋西際(「珉珉」とは三条通を挟んで向かい)の「内藤商店」で求めたシュロのヒゲで作られた一品を所有していた。それが大分疲れてきたので、今年3月末に京都を訪れたときに、「中華鍋を洗う」という用途を述べたところ、勧められたのが水草の根(?)を束ねた一品だった。これは、シュロのササラよりも固い。今は、東京日野の自宅でこのササラが大活躍である。
 ちなみに、これを内藤商店で買ったときに、おかみさんに「珉珉の人たちも買いに来ますか」と尋ねたところ、「いえ、長浜ラーメンの人は来ますよ」と聞いて、ちょっと笑えた。なんだか、嬉しい会話だったのである。