昔、昔の荻窪ラーメン | ポテトサラダ通信(校條剛) | honya.jp

ポテトサラダ通信 24

昔、昔の荻窪ラーメン

校條 剛

 現代は情報の時代だとことさらに指摘するのも、いまさらではあるが、生活上必要なあらゆる分野でウェブ上の登録を求められ、いちいちパスワードを入力しなければいけないという状態は、我々一人一人の頭脳を遠からず迷路にさまよわせるに違いない。高齢者が、大波のように増えていく現状とネット社会の膨張にはとうてい折り合えないと感じる。これは、自分自身の実感であるから間違いがないと思う。

 私の兄は、大学を出てから野村総合研究所、さらにぴあ総研と移った経歴の持ち主で、現在はメディア研究のほかに「ノルディック・ウォーキング」の運動なども進めている変わり種だが、「メディア研究者」として最近『ニュースメディア進化論』(校條諭著・インプレス刊)という本を出した。この本は副題として「情報過多時代の学びに向けて」とあるように、私がいま述べた情報の洪水のなかで、どういう未来図が描けるかを、主に新聞の歴史を辿ることによって予測しようとする内容だ。
<そして今、スマホなどを通じて見るデジタルメディアは、消費できるキャパにおかまいなく、さらに桁違いな量の情報を供給している。>そういった<総表現社会>に生きる我々に求められるのは、<メディアリテラシー>だという。メディアリテラシーをどのように養ったらいいかは、本書をお読みいただくとして、今日の話題は「ラーメン」である。

 

 ラーメンの聖地というと現在はどの土地を指すのか分からなくなっているほど「ご当地ラーメン」の話題が賑やかだが、かつては東京中央線荻窪北口周辺に何軒かの特徴のあるラーメン店が散在し、ラーメン好きは荻窪を目指すという時代があった。
 当時は北海道の味噌ラーメンはおろか九州の豚骨ラーメンなども知られていないころだ。味噌ラーメンは、まもなく即席ラーメンにも登場したので日常の味として当たり前になっていったが、九州ラーメンは新宿三丁目に開店した桂花ラーメンが東京への一番乗りだと信頼できる新聞で読んだことがある。それがいつごろのことだったか、いまは関係がないので調べてはいない。
 それらの変形ラーメンとは違って荻窪のラーメンは醤油味で具材もシナ竹、焼き豚といったものに、それぞれの店でモヤシとかナルトをあしらったりしたものである。塩ラーメンは一切なく、必ず醤油がベースである。ただ、出汁の取り方は、各店さまざまな工夫を凝らしていて、「春木屋」のように煮干し、「丸信」のようにカツオブシを加えている店があったが、店主から聞いたのではなく、匂いと多少の口コミから得た知識である。

 今日、お話ししたいのは荻窪ラーメンを代表していた「丸福」「春木屋」「丸信」のうちかつて食味評論家 山本益博氏が日本一のラーメンとして『東京味のグランプリ』で激賞した「丸福」に関してである。このラーメン店は、実は私の贔屓店ではなかったのだが、つい先ごろ96歳で世を去った母親が、荻窪の駅前に買い物にいくたび、楽しみにしていた店だからである。母親は、食べ物にさほど執着しない性格なのだが、「丸福」だけは特別だった。
 ここで話しておきたいのは、このラーメン店のことではあるが、いわゆるグルメ情報とは縁のない筋になる。現代は情報の時代と言われながら、たった十数年まえのことでも簡単に忘れられてしまい、あらたな情報が流布されるときに、かつての情報の共有がなされないせいで、はなはだ頓珍漢で見当違いな説が堂々と語られてしまうということがあるからだ。

 もう二、三年まえのことになるか、とある情報誌でこの街のラーメン特集をしたときに、誌面を開いて驚いたのは、現在存在する同名だがかつての「丸福」とは別の店である「丸福」を大々的に扱っており、その店がこれまでずっと荻窪ラーメンの王者として鎮座してきたというような内容だったのである。
 ご丁寧に監修者は「ラーメン研究家」とかいう若い人だったような気がするが、「丸福」の歴史も知らないでよくも専門家を名乗っていられるものだ。
 取材者が荻窪駅周辺のほかの店や長く住んでいそうな一般人に聞いて回ればすぐに判明するような情報なのだが、それをしていないのだろう。それこそ、いまも盛業の「春木屋」の当代の主人に訊いてみればすぐにいろいろな事情が分かるのである。「春木屋」も環八方向にもう一軒同名の店があり、その店を贔屓にしている客もいるというような知識も増えるはずだ。そういう手間をかけていないのである。
 この手の地域情報誌は全国に広がっているが、取材の内幕はまったくお粗末なもののようで、請け負った編集プロダクションのまだ編集者ともいえないようなアルバイトがネットから寄せ集めた情報を切り貼りしているという内情を聞いたことがある。もちろん、街に出てインタビューしたり写真を集めたりはしているはずだが、考えてみてほしい、インタビューするには事前の情報集めが必要なのに、情報がそもそも借り物のデータでしかもネット情報には間違いが多いのと、新しい情報しか見つからないことが多い。したがって、間違った思い込みでインタビューすると、相手はそれに応じた反応を示すのは当然なのである。一から説明するなど、面倒なことはあえて外してしまうのである。

 現在営業している(別)「丸福」に私は二度ほど入ったことがあるが、以前の(正)「丸福」を知っていたので、店主との会話は「あの『丸福』さんとはどういう関係ですか」とか「のれん分けしてもらったんですか」とか、事前情報を所持した人間から発せられる質問なので、相手はいい加減なことは言えないのである。
 私が今の(別)「丸福」に入ったときは、(正)「丸福」が休業していたときだったと思う。店名に出合ったときに一瞬移転したのかと想像したが、店のまえの賑わいがあまりに違うのでそうではないと勘づいた。お客はまことに正直だ。特にラーメン店は、味の良しあしで、混みあいかたが違ってしまう。店主は、「向こうとは親戚筋にあたる」というようなことを重い口から話したと思う。あるいは、多少の縁があったのか。(正)「丸福」は恐ろしく愛想の悪い夫婦でやっていたから、従業員ののれん分けなどということはなかったとも想像できる。
 (正)「丸福」は荻窪駅の北口、青梅街道に面して路地の角にあった。(別)「丸福」は、青梅街道とJR線に挟まれた飲食街の路地の中ほどに位置しており、それだけでも(正)「丸福」とは別物であることがわかるはずだ。

 実は、私自身は「丸福」よりも「春木屋」のほうを贔屓していた。中学生のとき、最初に「丸福」に母親に連れられて入ったとき、当然のように一席も空きがなかったので、私は若いOL風の女性の背後に立って順番を待ったのだが、その女性が後ろを気にして振り返ったときの不愉快そうな表情にいたたまれなくなって、店を出てしまったのである。そのときのトラウマで長らく「丸福」とは縁がなく、スープの切れが素晴らしかった「春木屋」のほうに足が向いてしまったのだ。
 後年、山本益博氏が「丸福」を絶賛してから、あらためて足を運んだが「モヤシがのっかって煮卵が入っている、淡白なラーメン」としか思えなかった。それから、また歳月が経ち、どうやら店主夫妻に不幸があったらしく、休業したままになってしまった。再開の知らせを聞いたのは、それからかなり経ってからだと思う。何しろ私の実家は荻窪なので、結婚後もたまに荻窪には立ち寄ることがあったのである。
 店はどうやら息子さんが継いだらしく(情報源は母親だろう)、三十歳くらいの若い店主がおばさんの従業員を三人ほども使って、あたふたという感じで、応対していた。味は往年の味そのものかどうか断言はできないが、それらしい感じは出ていた。しかし、麺が伸び過ぎていたり、まだ足が地に着かないふうではあった。その店が軌道に乗るまえに、どうした加減だろうか、店の引き戸は閉まったままになってしまい、この世から消えてしまっていた。

 「丸福」ラーメンについてさらに説明すると、味はきわめて薄味。醤油の色も薄く、タンメンの色に近かったのではないか。まあ、色については思い違いがありそうだが、この店の最大の売りは煮卵を入れてあることだった。焼き豚が入っていたか、記憶は定かではないが、多分入ってはいなかったろう。確かなのは、最後に湯がいたモヤシを載せ、一番最後に煮卵を煮た汁をお玉で掬って、少しかけるのである。母親は「あの煮卵の汁が旨さの秘訣なんじゃないかな」と述べていたのは卓見かもしれない。しかし、その推察に関しては、未だに私のなかでは「?」である。
 いま、思うのは「春木屋」のラーメンは毎日食べる気がしないが、「丸福」のラーメンなら毎日食べても飽きがこなかったのではないだろうか。そこに「丸福」ラーメンの偉大さがあったように思う。
 この原稿は2019年2月8日に書いているが、五日前の3日に老衰で亡くなった母親に、もう一度、本当の「丸福」ラーメンを食べさせてあげたかった。