大人の漫画家 滝田ゆう | ポテトサラダ通信(校條剛) | honya.jp

ポテトサラダ通信 20

大人の漫画家 滝田ゆう

校條 剛

「滝田ゆう」という漫画家をご存じだろうか? 1931年生まれ、1990年に満58歳で亡くなったが、それから30年近く経つ現在、本人も作品も話題にされることが少なくなっている。

 私が大学を出て、出版社の新潮社に入社し、最初に配属された「小説新潮」の編集部で初めてこの滝田ゆうという名前を知った。その雑誌で連載がすでに一年続いていて、私は途中からこの連載の担当者に任じられた。
「へえ、こういう漫画家いたんだな」
というくらい滝田の名前になじみがなかった。
 私がもっとサブカルチャーに敏感で、漫画の世界にも興味を持っていたなら、当時「進んでいる」といわれていた学生が話題にしていた「ガロ」という漫画月刊誌で、滝田の代表作品といわれている「寺島町奇譚」もすでに読んでいたかもしれない。

「小説新潮」で連載していたのは、「ネコ右衛門太平記」というネコのように髭のある浪人が主人公の他愛のない日常を描いたシリーズで、滝田といえば「私漫画」という本流の系列ではない、言うならば落語的な語りの漫画であった。はっきり言って、当時も今もこのシリーズが傑作とは思えないのだが、なんと8年もこの連載は続いたのだ。当時、対抗雑誌であった「小説現代」で連載していた「泥鰌庵閑話」のほうが私も周囲も面白いと感じていたと思うが、そのことはまたあとで語るとして、今年2018年の正月から、東京の美術館で本格的な滝田の回顧展が開かれているのだ。
 東京本郷に弥生美術館というこじんまりとした私設の美術館があるのをご存じだろうか。「竹久夢二美術館」と併設されているので、夢二ファンの方は大抵ご存じだろう。東大の弥生門から道を一本隔てた向かいである。回顧展のタイトルは「滝田ゆう展 昭和×下町セレナーデ」。
 元文芸編集者の私は、先に述べたように「小説新潮」という小説雑誌で滝田ゆうの連載漫画を七年間担当した。さらに、2006年10月に『ぬけられますか―私漫画家 滝田ゆう』という評伝を河出書房新社から刊行しているので、この展覧会に資料を提供したり、学芸員の松本品子さんの相談に乗ったりと協力をしてきた。 3月3日14時から、美術館で私のトークも予定されている。トークはともかく、3月25日までと長い期間での開催なので、寒さが気になる高齢者の方は、多少春めいたころにお出でいただくのがいいと思うが、とにかく一度ご覧いただきたいのである。

 現代のコミックは別の流れに変わっているが、これまで漫画というと、手塚治虫や藤子不二雄など少年漫画に偏って議論されることが多く、大人向けの漫画に日が当たることが少なかった。水木しげるや赤塚不二夫などは感性的に大人の部分の比重が高いと思うのだが、現在一種の翻案としてヒットしている赤塚の「おそ松さん」などはやはり完全に子供の世界観が基盤になっている。漫画は普通、少年少女が読むものなのである。
 現代は、実は漫画が少年少女のものというより、青年たちを主要な読者にするような変化を見せている。世の中が複雑になったのと並行して、漫画の世界もだんだん大人化していったことは間違いがない。コミックという大人でも子供でもない中間的な漫画文化が定着してきたからで、かつてのような「子供の漫画」「大人の漫画」という区分があいまいになってきている。「進撃の巨人」を例にとるとそのことはよく理解されるだろう。
 しかし、こと一世代まえの漫画までは、やはり漫画は少年少女のものであり、滝田ゆうだけではなく、大人の読者を対象としていた漫画家たちは、その死とともにどんどんと忘れられていっている。とりわけ、四コマや八コマで世情を風刺していた加藤芳郎や小島功など、「漫画読本」という文藝春秋から出ていた漫画雑誌の常連執筆者たちは忘れられるのが早い。「漫画読本」という文化誌がかなりまえに消えてしまったことが意味するのは、大人の漫画の衰退である。
 とはいえ、新聞の風刺漫画家などと比べると、滝田ゆうは細々とだが、生き残っていくであろうことは間違いがない。というのは、滝田は長編漫画家ではないが、一話32ページの「寺島町奇譚」を描いているし、情緒あふれる水彩画をたくさん残しているからである。

 今度の回顧展では滝田の仕事のすべてが観られる。学芸員松本品子さんの熱意に満ちた、緻密な仕事のおかげである。さらに補足すると松本さんが編集した平凡社コロナブックス『滝田ゆう 昭和×下町セレナーデ』はプロの編集者もここまで丁寧には作れないだろという内容の充実ぶり。見事な仕上がりだ。
 滝田の仕事を松本さんのような若い女性が理解してくれることはありがたい。というのは、滝田漫画の再度の隆盛をみるには二重に障害が立ちふさがっているからだ。一つは、いま述べてきたように少年ものではないということ。もう一つは、商売女が春を売る、しかも公認の場所ではなく私娼街という売春地域を作品の舞台にしているということが大きな障害となるのである。
 滝田が育ったのは戦前の「玉ノ井」という私娼街であった。玉ノ井というのは、寺島町の旧姓であり、滝田が育ったころには俗称になっていたはずだが、電車の駅名には残っていたし、十年位前までは京成電車の東向島駅の看板には括弧して「玉ノ井」としてあった。現在はどうであろうか。ともあれ、吉原のような行政の公認の売春地域ではなかったので、料金も安く、一段低く見られていた地域ではあるのだ。滝田の家は、その地域の外れに位置していたが、売春業を営んでいるわけではなく、いまでいうスナックを経営していた。「ドン」という名前で、これから女郎買いに突撃するまえに酔っぱらっておこうという客相手のバーだった。玉ノ井の入り口の一つだったといっていいだろう。
 しかし滝田が書いているように、どんな事情を抱えた街でも、それぞれの家庭ではごく普通の明け暮れがあるのであり、少年滝田は、おっかない母親(義母)の監視をかいくぐってべえコマの一戦に夕方まで熱中するという場末町の普通の少年だった。
 この町が文芸の世界で有名なのは、永井荷風の『濹東綺譚』という自伝風小説が評価されているためだが、滝田の「寺島町」は、荷風の「情欲」に対して、「暮らし」をテーマに描いているといえる。私娼街で情欲にふけるのは当たり前だが、住民の暮らしぶりを描いた作品は古来稀だろう。そういう意味でも、荷風の作品しか知らない方にぜひ滝田作品を読んでほしいと思う。
 滝田の本領は、私の著書のタイトルにあるように「私漫画」である。その意味で、もう一つの傑作シリーズは「泥鰌庵閑話」である。このシリーズを語る余裕がなくなってしまったが、この漫画の原画も今度の回顧展ではたくさん展示されている。

 さて、私が担当していた「ネコ右衛門太平記」だが、いま、私の後悔は、途中で一旦やめて、ほかのシリーズでの再出発を考えなかったことである。編集者として判断力、決断力が足りなかったと反省しきりだが、いまさら遅すぎますね。

 

■ 昭和×東京下町セレナーデ 滝田ゆう展(弥生美術館)
http://www.yayoi-yumeji-museum.jp/yayoi/exhibition/now.html