ポテトサラダ通信 18
「日本推理サスペンス大賞」設立秘話
校條 剛
現在、直木賞の選考委員のうち女性作家二名が私が創設にかかわった日本推理サスペンス大賞の出身です。その二人とは宮部みゆきさん、高村薫さんのご両人なのですが、このほかに乃南アサ氏、帚木蓬生氏、天童荒太氏、安東能明氏などが、デビューあるいは再デビューした歴史的な新人文学賞でした。
私には著作がいくつかあるので、誰かがWikipediaを制作してネットに上げてくれたのですが、そのサイト上に「この情報には信頼できない箇所があります。第三者の証言を参照文献として示すように」という警告が貼りだされていました。
私は自著のなかで「日本推理サスペンス大賞を創設した」と述べていますが、それを根拠にWikiの作成者はその部分をなぞったのでしょうが、当の本人だけで第三者の証言や記述などの裏付けがないため、信用ができないというわけなのです。至極もっともな指摘ですが、この賞の成立の経緯を知っているのは私以外に見つけにくい以上、「校條剛が創設した」という事実の第三者証言を得ることは難しいのです。
私以外に創設の舞台裏を知っているのは、主催の日本テレビ「火曜サスペンス劇場」の御大・小坂敬プロデューサーと嶋村正敏ディレクターの二人ですが、小坂氏はとっくの昔に引退し、回想録なども書いていないようですし、しょっちゅう酒場をご一緒した嶋村さんは、7回で賞が終了した翌年の1995年に鬼籍に入ってしまわれたので、裏事情を知る人物は私一人だけということになります。
実は書いてくれても当然のメンバーは存在します。この賞は下読みから最終候補選出まで、五人の書評家グループに任せていたので、その予選委員のうち一人でもいいので、私がどのような役割を務めていたのかを証言してくれれば私がこの賞を最初から最後まで主導していたことが明らかになるのです。関口苑生氏をリーダーとして、井家上隆幸氏、新保博久氏、香山二三郎氏、長谷部史親氏の五人がそのメンバーでした。また、私が本選の選考委員の方々すべてに委員就任のお願いにうかがっているので、それも重要な証言となることでしょう。ただし、リーダー格の佐野洋さんと連城三紀彦さんはすでに故人であることを思うと、この賞も相当昔のことだったんだなと思わざるを得ません。第一次の選考委員は、ほかに逢坂剛氏、高見浩氏、椎名誠氏ですが、基本、私がそれぞれの方への交渉役を受け持ったと記憶しています。私は当時、雑誌と単行本はコンビでやるべきだと考えていましたので、出版部の佐藤誠一郎君を同行させた可能性もあります。そのあたりはもう記憶に残っていません。連城さんとお会いした時に、連城さんが依頼の口上を聞きながら、テーブルに上半身をくねくねとこすりつけるような奇妙な仕草をされたことも昨日のことのように思い出されます。
いずれの日にかこのメンバーの回想などが文字化されることを祈っておいて、私自身でこの場を借りて、この歴史的な賞がどのように創設されたのかを順を追って説明することにします。
1987年の某月某日、小説雑誌「小説新潮」の編集長だった横山正治氏が、部員である私に次のように情報を伝えたのです。作家の佐野洋さんからの情報だといいます。私が出版部の佐藤誠一郎君と企画して、役員の新田敞さんと社内に立ちあげた「ミステリー研究会」のテーマに「新潮社主催の新しいミステリー新人賞を作る」という項目があることを知っていたからだと思います。その情報とは以下のものでした。
先ごろ、推理作家協会に理事長の中島河太郎さんを日本テレビの人が訪ねてきて「日本テレビは、推理作家協会と共同で、賞金1000万円の賞を作りたい」と。しかし、推理作家協会は講談社と共同して「江戸川乱歩賞」を続けていました。しかも、乱歩賞の主催者は、講談社ではなく、協会そのものなのです。新たにミステリーの新人賞など作れないのが道理です。新潮社がミステリーの新人賞を作りたいのなら、日本テレビに持ち掛けたらどうかと。日本テレビのどのような部署からの提案だったかは、「中島さんにお尋ねください」ということでした。
私は、さっそく一面識もない中島河太郎理事長に電話を入れました。中島さんは丁寧に経緯を話してくださった。それによると、日本テレビ「火曜サスペンス劇場」のエグゼクティグ・プロデューサーの小坂さんという方だと。さっそくミステリー研究会の親分でもあり、「小説新潮」の担当重役でもある新田さんに、話の流れに添って説明し、日本テレビと交渉してもいいでしょうか、いやぜひとも交渉したいのだと口説いたのです。
新田さんに、もちろん嫌はありませんでしたが、さすが金を出し渋る新潮社で出世した方です。次のような条件を相手が飲んでくれるのなら、OKしてもいいとのことでした。
1.お金は出せない。ただし、人は出す。ノウハウも提供する。
2.共催ではなく、協力としたい(要するに、お金を出す義務から逃れたいという意味)。
なかなか、虫のいい条件でしょう? 受賞作は当然、新潮社から刊行するので、その本が当たれば、濡れ手に粟みたいな話なんです。事実、二回目の受賞の宮部みゆきさんの『魔術はささやく』は、いまだに売れていて、ミリオンの数字を出しているらしいです。
新田さんの条件は相手に伝えるのになかなかきつい内容でしたが、仕方あるまいと腹をくくりました。すぐに電話です。日本テレビの小坂プロデューサーに「推理作家協会のほうにいらしたようですが」というもうそのあたりで、「あははは」と豪快な笑い声。とにかく会いましょうということになったのです。感触はグッドです。
私一人では不安なので、当時コンビを組んでいた佐藤君を連れて、小坂さんと交渉です。もう相手は、新潮社と一緒にやりたい様子が見て取れます。「実は、光文社からも申し込まれていましてね」などと前振りがありましたが、私は新潮社のブランドのほうが日本テレビのお好みではないのかと密かに思っていましたから、他社に負ける気がしませんでした。
私は新田さんに言われた条件を述べます。「お金は出せませんが、ノウハウと人間は提供します。いいでしょうか?」と単刀直入に切り込みます。小坂さんは、一瞬黙りました。楽譜であれば、8分休符くらいの間だったでしょうか。でも、間髪を入れず「いいですよ」という返事です。よほど新潮社からのオファーが嬉しかったのでしょう。私も胸を撫でおろしました。その席ですぐに「実務は、こいつが担当するから」と嶋村ディレクターを紹介されます。テレビ人とは思えない、暗く沈んだ印象の、私よりも一回り上のベテランです。このときの嶋村さんのイメージはあまりよくはなかったのですが、その後何年か酒癖の悪い私を持て余しもせずに、とことん付き合ってくれました。泉下の嶋村さんにあらためて感謝です。
ここで、当時の長編ミステリー新人賞の周辺事情を説明しておきましょう。乱歩賞に関しては述べましたが追加すると賞金ゼロ、単行本印税のみ。我々が当面の敵と考えていたのは、電通がサントリーと大阪・朝日放送、文藝春秋の三社を結び付けた賞で、賞金500万円の「サントリー・ミステリー大賞」でした。サントリーがほとんどのお金は提供していたこの賞に比べて、日本テレビの賞は、主催は日本テレビで協力が新潮社だったので、スポンサーが不在のため資金力は弱体でした。それでも、嶋村さんが、「日本テレビには、入金伝票はあるが、出金の伝票がないので、どうやって賞金を請求していいか分からない」なんて笑っていたのもいい思い出です。資金のほとんどを賞金の1000万円に投じてしまうので、第一回を除いてはパーティも開けないありさまでした。
今述べた賞のほかに、角川書店が横溝正史賞を設けていて、こちらは賞金が400万円でした。我々の日本推理サスペンス大賞の賞金1000万円は、サントリー・文春の賞をはるかに抜いて一番高額だったわけですし、日本テレビの狙いもそこにあったのです。
日本推理サスペンス大賞は1987年夏の第一回募集から締め切りまで半年しかなく、あたふたと始まり、本来テレビの原作を得るのが目的だったのにも拘わらず、結局テレビ化の成績がよくなかったので、第7回を持って打ち切りとなりました。1988年から1994年までがこの賞の継続した期間です。
さあて、ここまででかなり長く書いてしまっています。今回はこれくらいにして、またの機会にこの賞に関してのこぼれ話、裏話をご披露したいと考えています。