鶴見俊輔のこと、またはマスコミの偏向 | honya.jp

ポテトサラダ通信 12

鶴見俊輔のこと、またはマスコミの偏向

校條 剛

 昨年、鶴見俊輔が亡くなったときに、朝日をはじめとする新聞や雑誌は氏の業績を短く述べるに際して、「思想の科学」と「べ平連」の二つに集約して述べていました。間違いではないかもしれませんが、それでは単に左翼側の知識人の一員としてのイメージしか、氏の日ごろの仕事を眼にしていなかった読者には認識できなかったことでしょう。

 私が鶴見氏に親近感を感じるのは、マンガや大衆(エンタメ)文学への愛着が生半可ではないからです。私は現在京都の私立芸大で文芸表現学科という、もの書き志向が7割以上という文学系の教員をしています。しかも、学科長という学科の責任者でもあります。全国、どの大学を見てもエンタメの作家や編集者、研究者が学科の長である例は少ないと思います。私の大学の姉妹学校である山形の学科長は作家のY氏ですから、私の知る限り、この二校が研究者ではなく、小説家や編集者であった人間が学科のトップに立ち、エンタメ領域をカバーしている珍しい例といえると思います。

 鶴見俊輔氏は、65年以上も前に書いた「日本の大衆小説」でこう書いています。
 <大衆小説は、哲学性の濃厚な芸術である。日本の純文学と比較して考える時、日本の大衆小説は、より多く「人間いかに生くべきか」の問題と取り組んで来たと言えるし、その意味で、純文芸よりも多分に哲学的なのだ。そして、多数の読者にとって長年月支持されて来た大衆小説のいくつかのタイプは、そのまま、日本の大衆が支持するところのいくつかの哲学のタイプであるかの如くにさえ、考えられる。>
 
 これが書かれたのは、もう一度言いますが65年前のことなのです。鶴見氏は、このエッセイが収録された『大衆文学論』という著作のなかで、大衆文学こそ文学研究に値すると述べています。ほとんど私の人生の年月に匹敵する、この65年間という時間が過ぎて、大学の研究者の間で、大衆文学を研究する人たちがどれだけ増えたのでしょうか。まったくいないわけではありません。確かに明治期の新聞小説の歴史的な役割を丁寧に研究した学者もいますし、尾崎紅葉の『金色夜叉』の種本をアメリカの図書館で見つけ出した努力家も存在します。しかし、明治期の大衆小説はすでに「歴史的文化」という衣をまとっているので、その内容の大衆性は薄れています。よく考えれば単なる色恋の小説である『源氏物語』がまるで日本文学の象徴のようい言われていることを考えれば、すでに文学あるいは文化の歴史に足を踏み入れるほど古い作品を研究することは純粋な文学研究とは言えません。では、太平洋戦争終結後の現代の大衆作品を研究している大学の教員がいるのでしょうか。いないのです。見事にいない。研究者は、基本的に解読が難しい作家や作品を好みます。それが勉強だと思っているからです。読者が少ない小説ほど高尚だとも考えています。

 若いころの私が鶴見氏の仕事におやっと感じたのは、筑摩書房が1971年に出ていたマンガの作家別シリーズ「現代漫画」の編纂者を鶴見氏がやっていたことです。そのうちの一巻『滝田ゆう集』にはお世話になりました。私が1973年に「小説新潮」の編集者になったときに滝田の担当になり、その作品を読んでいるどころか、名前さえ初めて聞くという有様だったので、勉強のために急ぎその本を買い求めたのでした。そして、その巻の解説を担当していたのが、まさに鶴見氏だったのです。
 その解説文「エゴイズムによる連帯」は、現在、河出書房新社で刊行している『鶴見俊輔コレクション4 ことばと創造』で読むことができます。
 今はこの内容には触れませんが、鶴見氏のような高名な学者が滝田漫画のファンであったことを知ったのは嬉しいことでした。私は後年、最初の著作として滝田ゆうの評伝をものすることになりますが(『ぬけられますか 私漫画家滝田ゆう』絶版。どこか文庫の名乗りを上げてくれる会社はありませんか?)その著作で鶴見氏の論を引用したかどうか忘れてしまいましたが(自分の書いたことを忘れるのは常態です)、やはり鋭い指摘が随所に見られます。

 私の学科には「百讀」という授業があり、最初は文字通り百冊の長編を読んでもらい、要約を書いて提出するという内容だったのですが、どうもハードルが高いので、冊数を減らしたり、短篇を増やしたりしてきました。私も今年から一部担当することになり、課題の本の一つに赤川次郎『ふたり』を選びました。これまでの課題本は、純文学や外国小説の古典ばかりだったので、異色の選択と思われるでしょうが、エンタメ編集者の出身である私には時代の要請に従っただけだという気持ちがあります。もっともまだ、大学の授業で取り上げる教師は少ないことと想像します。

 かなり前に読んだ『ふたり』の文庫を自宅の書庫から京都に持ち帰って、解説を読もうとページの後ろのほうを開いた途端、鶴見俊輔の名前が飛び込んできました。
 最初から、鶴見氏は泣かせることを言っています。
<赤川次郎の小説を買って読みはじめ、10ページくらい読んで、これはまだ読んだことがないとわかると、うれしい。>
 まあ、赤川さんのように何百冊も出ていると、一度読んだ本を買ってしまうことは日常あることでしょう。でも、それでもいいのだそうです。
<こうして私は再読・三読をかさねつつ、大佛次郎の全著作、佐々木邦の全著作、和田邦坊の全著作、宮尾しげをの全著作、岡本一平の全著作を読んできた。>
 大衆小説家や漫画家の著作のなかで一番好みの作家のものは全部読んでいるのです。それが、どういう結果をもたらすかを、次のように言います。
<完全な絵空事。肉体的重さのない主人公たちがくりひろげるスピーディな劇の展開。そのめざす終点は、私が実人生でめざしている目標といくらか交錯しているところでもある。そうでなくては、この人のどの著作も読むという習慣はできない。>
 鶴見氏は、このエッセイの最後の行で自分は赤川次郎の作品の中毒患者であると語っています。
 
 このように鶴見氏は、開けっぴろげに自分がどれだけ大衆文化や大衆文芸に興味を傾けてきたのか語っているのに、その点に関しては誰もが無視してしまっています。氏のように大衆文化に深く傾倒して、相当量の文章を残していることは、多分、河出書房新社で刊行されている、先に述べた一つの巻を読めば分かるのですが、そこまでして読もうとする人はごく僅かであり、たとえば朝日の追悼文として黒川創の文章しかを読まなかった人には思いもよらないことと思うのです。
『現代思想 総特集 鶴見俊輔』というムック本も買ってみましたが、せっかく『ガロ』を編集していた南伸坊が対談に出ているのに、相手が黒川創では、話が大衆文芸のほうに行きようがありません。

 人間の全体像をとらえることはなかなかに難しいことで、ある人と別な人は違う側面を語るべきなのです。鶴見氏の大衆文化への愛着は本質的なものと私は考えていますので、その方面について語らせない朝日新聞をはじめとするマスコミの偏向に怒りを覚えるばかりです。この国の文化人や知識人はだから大衆から支持を受けないのだと思うばかりです。
 次の選挙も、自民党が大勝を収めることでしょう。