閉門即是深山 530
静御前の高松
祖父の故郷香川高松には、義経に愛された静御前の話がある。
以前、香川菊池寛賞の奨励賞を受賞した小説が現代と静御前が生きた鎌倉時代をクロスして面白く仕立てていたので、私の興味を誘った。
静御前の母イソは、平安時代に香川の丹生の小磯で生まれた。イソが12歳の頃に京都に入り、白拍子となる。白拍子は“かわほり”という扇子を持ち、白の水干、長袴、立烏帽子のいで立ちで、太刀を指して男装をして舞う。舞は、雨乞いなどの舞で、謳いながら舞うという珍しいモノで、イソは舞楽を極め藤原道憲に禅師の称号を受けて磯禅師と名乗ったという。静御前は後白河法皇と磯禅師の間にできた娘の説もある。静御前は、母に似て美しい娘であった。
静は、13歳の時に宮中節会に奉仕することになり、神泉苑での雨乞いの舞が日本一だと後白河法皇から賞賛されたと伝えられている。義経が一の谷の合戦で勝利し京都に凱旋する頃に、後白河法皇からの薦めで16歳の静と出会う。義経の軍勢は少人数であったが、義経の知恵により四国屋島の戦いで平家を打倒した話は、有名である。この屋島の戦いで、静御前の母磯禅師の出身地讃岐丹生が義経の情報収集の力になったようだ。
1185年、下関の壇ノ浦の戦いで源義経は平家を滅ぼしたのである。だが、兄である源頼朝は弟義経に嫉妬した感情を持った。義経は、兄の頼朝に追われる身となってしまった。義経が子供の頃、京都の鞍馬山で剣の修行をし、京都の加茂川にかかる五条で荒くれ坊主弁慶と出会った話は、私が子供の頃よく歌を聞いた。
♪京の五条の橋の上、大の男の弁慶と~♪こんな歌だった。義経の家来となった武蔵坊弁慶は、義経を守り奥州藤原氏を頼って現岩手県平泉中尊寺に逃がそうとした。その道途中の物語が元禄15年1702年に初代市川團十郎が原形を創り、七代目が歌舞伎十八番にした『勧進帳』である。
さて、静御前の話に戻すと京都を追われた義経は、静御前を連れて吉野山に逃れようとした。が、吉野山は女人禁制であり同行が出来ない。義経は、愛した静御前に形見として後白河法皇から平清盛に、そして壇ノ浦の合戦で義経に献上された名器“初音”という鼓をわたした。静は、その悲しみを謳に残した。義経が逃げた腹いせに頼朝は静を鶴岡八幡宮で舞えさせたとき、静は“しづやしづ賤(しづ)のおだまきくり返し 昔を今になすよしもがな”(静や静と甘えてくれた義経さま、ヤスい布を糸車に巻き返すように、昔に戻れたら)頼朝は、烈火のごとく怒ったが傍にいた妻北条政子がとめたと言う。また、“吉野山 峰の白雪ふみわけて 入りにし人の跡ぞ恋しき”も哀しい。
静御前は、母とともに得度を受けて、尼となった。母は磯禅尼、静は宥心尼と名乗った。宥とは、ゆるすという意味を持つ。静は、煩悩を捨てるため形見の鼓を泉に捨てた。琴平電鉄長尾駅近くの「鼓渕」である。魚も美味しく、温泉もある。夕日も手に乗せてパチリ!沢山の史跡の残る香川県高松に行って散策を!