閉門即是深山 520
夜の赤坂
若いころは、夜になるとよく赤坂の街をぶらついていた。中年、編集者のころは、銀座村に変わったが、10代は赤坂だった。父親同伴、父親が夜中に寂しくなると私を誘ったからだ。
母は、27歳ころから癌を患っていて40年以上癌と友達付き合いをしていた。彼女にとって夜は、寝る時間帯だから家を静かにしてあげないといけない!父は、ライブで踊るのが好きだった。お相手が居ないと私を誘うのだ!
当時、赤坂見付近くに“夢幻”という大きなライブハウスがあった。黒人のバンドが入り、リズム&ブルースを奏でていた。父は、よくその店に顔を出す女の子を相手に踊っていた。私は、バンドに興味があった。オーティス・レディングやサム&デイブ、スティヴィー・ワンダーやジェームス・ブラウン、ウイルソン・ピケットのSunnyなどが流行った時代だ。R&Bの花盛りの時代だった。もちろん、本物が出ているわけではない。コピーバンドばかりだった。大きなライブハウスが無かった時代だから常に“夢幻”は、混み合っていた。
父は、手に靴を持ち“抜き足差し足“の態で私の部屋のドアを叩く。私も急いで着替えをし、母に気が付かれぬように、そっとドアを閉めた。
その頃、父は名古屋や大阪の支社長をしていたから父と逢える時は滅多になかった。赤坂の夜が年に3、4回ある。その時だけが、父との交流の場だった。あの頃の赤坂は、今と違いクオリティが高かった。この”夢幻“という大箱だけが、大衆の遊び場だったように思う。今、私がこのブログを書いているのは赤坂のオフィスだが、溜池や山王下に近い。遊び場は赤坂見附の周辺だったから、同じ赤坂でも一駅ぐらい違う。
東京に雪が降った日だった。予報では聞いていたが、まだぶらつく程度の時間はありそうだった。朝からスタジオで下手なドラムを敲き、先生から習う予習をして、ジャズドラムを教えてもらっている先生のスタジオに入る。そして、体を冷やすために、喫茶店に入った。その時、なんとなく赤坂の街が懐かしく感じた。
これが、その日赤坂の街をぶらつくきっかけだった。赤坂は、結構山坂が多い。
一ツ木通りと平行した懐かしい道を歩いてみたが、まったく様変わりをしていた。当時有名だったグランドキャバレー・ミカドがあった場所も判らない。学生時代バンドを組んでいた時、このミカドやニューラテンクォータの待合室でアルバイトで演奏した場所もガラリと変わり、まったく判らない。そのうち東西南北も判らなくなった。
ふと見るとちょっと見落としそうなビルの地下の看板に「さかやJAZZ BAR」と、ある。行きつけの喫茶店でよく出会うママの店だ。会うたびに「今度、行くね!」と、言った店だった。外看板に「本日木曜は、セッションの日」とあった。ふらりと地下2階の店に入った。ドラムの先生には、プロの中に入って敲かせてもらいなさい!と常に言われていたからだ。店を出る頃には、小雨がぱらついていた。10数年ぶりの午前様!最終電車に乗った!