閉門即是深山 496
人間国宝・神田松鯉
2019年、人間国宝の保持者となった(かんだ しょうり)さんと出会ったのは、日本ペンクラブの会議室だった。
人間国宝は、重要無形文化財の保持者のことである。講談師としては、6代目龍齋貞水に続いてふたり目となる。えっ、講談?講談なんかしらないねぇ、興味なかったもの。と、頭の中に描いていらっしゃる方も多いと思う!あの、タタンタンタンだろ?そのくらいは知っているよ。と、言う方も多かろう。人間国宝・神田松鯉さんは、最近テレビ番組によく出演している六代目神田伯山さんのご師匠である。
松鯉さんは、劇団文化座を経て俳優集団民衆舞台に入り、その後、歌舞伎役者二代目中村歌門に入門している。そして、1970年、講談師二代目神田山陽に入門して神田陽之介の名で講談修行に打ち込んだ。1973年に神田小山陽と改名。1992年三代目神田松鯉を襲名して真打に昇進した。
神田松鯉の名は、初代神田松鯉が神田祭りに掛けた洒落で、晩年に名乗った隠居名がはじまりだった。初代は『大岡政談』を得意としたため天一坊伯山とも呼ばれていたらしい。他にも『宮本武蔵』『大坂軍記』も得意とした。江戸時代の末期1800年の中頃である。初代は、普段は、いつも帯刀して高座の刀掛けに脇差をのせてから話を始めたというエピソードが残っていて、その刀は靖国神社游就館に献納されていると聞いたことがある。
講談の歴史は古い!戦国時代から御伽衆として呼ばれていた。江戸時代には、辻講釈と呼ばれ『太平記』のような軍記物が流行った。宝永年間に入ると常設小屋が許され、初めて“講釈”の名が生まれたようだ。文政年間に入って話芸として確立されたという。
「講釈師見てきたような嘘をつき」
一般に読み書きの出来なかった時代の、口伝である。ある意味では、琵琶法師のよな存在だったかも知れない。明治の末期に立川文庫など講談の内容が掲載され「講談本」が人気となった。大衆メディアとなる。講談社も講談本で成功した出版社なのだ。
さて、皆の衆!タタンタンタン!演者が、前に置かれた小さな机、釈台に座り、張り扇という扇を右手に持ち叩いて調子をとりつつ歴史話をして観衆を楽しませる講談は、日本の伝統芸能のひとつである。以前は、多くの流派があった。一門と呼ぶほうがふさわしいかも知れない。一龍齋派、田辺派、室井派、小金井派、上方でも、旭堂派などが有名で、神田派も伯龍一門と山陽一門に分かれていた。
「もしもし」
ある日、人間国宝神田松鯉師匠から私のスマホに電話が入った。お弟子さんたちの稽古に祖父の書いた『恩讐の彼方に』を使っていいか?という内容だった。もちろん「どうぞ!」と返した。なぜなら口伝ほど今の世で重要なものはないと、思っていたからだ。大衆小説を次の世代に受け継ぐ、口伝が大切なのだ!
香川高松の菊池寛顕彰会・菊池寛記念館の主催で、今年も神田松鯉師匠の講談が聞ける。後の対談に私も出る。日時は、10月9日 スポーツの日の16時からです!
■特別講演会「パパン、パン、パン!講談で菊池寛を語る 人間国宝 神田松鯉」
(定員に達したため、申込受付は終了されています)