閉門即是深山 476
100年という年
なんですかねぇ、今年2023年は、私にとって沢山100年の記念年になってしまいました。
私の祖父、作家だった菊池寛が35歳の時ですから1923年大正12年の新年号から雑誌文藝春秋が創刊されました。創刊時の部数は3000部、たった28頁で、定価10銭、『中央公論』の半額だったそうです。
「ボクは、ポケットマネーの二百円位はどうにでもなるからね。それで出すんだ。牙城という題はどうだろう。君、君、いかんかね」
創刊に加わった作家佐々木味津三に菊池寛は、大正11年秋深まったころに言ったという。菊池寛が『牙城』という雑誌を出したいというのを、いかんです、「菊池さんが昨年出版した随筆集の題『文藝春秋』がいいでしょう」ということを言って誌名は変更された。
大正12年1月に発行するには、もう動いても遅い時だった。しかし、芥川龍之介を初めとして執筆者18人の目次が刷り込まれた。1頁から四段組みで本文となった。上段に『創刊の辭』、中二段が芥川の『侏儒の言葉』、下段が菊池寛の『新劇の力量』が並んだ。『創刊の辭』を下記してみる。
創刊の辭
私は頼まれて物を云ふことに飽いた。自分で考へてゐることを、読者や編輯者に気兼なしに、自由な心持で云って見たい。友人にも私と同感の人々が多いだらう。又、私が知ってゐる若い人達には、物が云ひたくて、、ウヅウヅしてゐる人が多い。一には自分のため、一には他のため、この小雑誌をだすことにした。
また、裏表紙の奥付の上欄には編集後記として、
△もとより、気まぐれに出した雑誌だから、何等の定見もない。原稿が集まらなくなったら、来月にも廃するかも知れない、また、雑誌も売れ景気もよかったら、拡大して、創作ものせ、堂々たる文藝雑誌にするかも知れない。
△去年あたり、いろいろな人々から悪口を云はれても、大抵は黙ってゐた。平生書き付けない文藝欄などへ、飛び出して行って、喧嘩をするのは大人気ないと思ったから。が今年からは、自分に対する非難攻撃には、せいぜい、この雑誌で答へたいと思ふ。
2月号は発行部数を4000部に、3月号6000部、4月号は56頁特別号定価20銭10000部、8月号では、最後の頁に4月号までの損益勘定を発表した。
今年で『月刊文藝春秋』も100歳になる。文春と同い年の作家『鬼平犯科帳』や『梅安』で有名な池波正太郎のことを、この5月号に姪の石塚綾子さんは「生誕100年・叔父池波正太郎の美食と癇癪」という題で書かれている。私も『鬼平犯科帳』の編集担当だった。もう第7回になるが、連載で鹿島 茂さんが「菊池寛アンド・カンパニー」も同号に掲載されている。私の父菊池英樹は、池波さんと同い年だから、生きて居たら今年100歳の誕生日だった。関東大震災も大正12年1923年だった!