閉門即是深山 461
菊池寛賞(2022年)
この賞の話は、以前このブログで書いた記憶がある。かも知れない!なにせ、好き勝手、思い出すがママに書いて来たし、いろいろな所から頼まれて菊池寛のことを書け!とご依頼頂くので、何をどこに書いたか覚えていないから困る。
この「閉門即是深山」の前にも別の社からの依頼で毎週休まずに、結果3~400本書いていたから1000本近くになる。そして私も来年77歳の年を迎えるので、脳のあちこちが壊れだしても不思議はない。余談だが、パソコンにしてもスマホも、20年も壊れないものは無い!なんとか77年間も自分の脳が、完全には壊れないでいてくれただけでも良しとしなければ撥だか罰が、当たらないとも限らない。
だらだらと言い訳をするのは、このくらいにして先に進むことにする。
この12月の最初の金曜日に、ホテルオークラの新しく造りなおしたプレステージタワーで第70回菊池寛賞の贈呈式が開催された。去年と一昨年の受賞者や受賞団体には気の毒だが、コロナのためにお客人を呼べなくて、3年ぶりのお客様の前での授賞式とパーティーである。毎年1000名くらいの人たちが集うパーティーなのだ。それに、ホテルオークラが立て直し工事をしていたために、長年やっていたこの集まりが何年か帝国ホテルの孔雀の間に移っていたから、久々のオークラでの会となった。
戦前昭和14年にスタートした菊池寛賞は、45歳以下の選考委員によって46歳以上の作家に与えられるユニークな賞だった。菊池が提案して、それに賛同した周りの作家たちに自分の菊池は、名前を冠することだけは「勘弁してくれ!」と懇願した菊池だが「そりゃ、菊池寛賞にすべきでしょう」と、押し切られた逸話がある。
第1回が徳田秋聲、2回が武者小路實篤、里見弴、宇野浩二の3名、第3回が室生犀星、田中貢太郎、4回が久保田万太郎、長谷川時雨、中村吉蔵、第5回は、佐藤春夫、上司小劍、第6回、昭和19年(1944年)川端康成が戦前最後の受賞者となった。
最初の頃の選考委員が豪華で、横光利一、尾崎士郎、小林秀雄、船橋聖一、石川達三、永井龍男、堀辰雄、中山義秀、尾崎一雄と名のある作家達であった。
戦争が始まり昭和23年3月に菊池寛が逝去、昭和27年に菊池寛賞は、故菊池寛が日本文化の各方面に遺した功績を記念するための賞に変わった。それは、菊池寛生前、特に関係の深かった文学・演劇・映画・新聞・放送・雑誌・出版、及び広く文化活動一般の分野において、その年度に最も清新かつ創造的な業績んをあげた人、或いは団体を対象にした。
選考委員という名を選考顧問に変え現在は、阿川佐和子、池上彰、保坂正康、養老孟司の4顧問。今年の受賞者は、宮部みゆき氏、三谷幸喜氏、信濃毎日新聞社「五色のメビウス」取材班、NHK「映像の世紀バタフライエフェクト」そして、フィギュアの羽生結弦氏でした。各々に受賞理由があるが、誌面の都合で割愛する。
文藝春秋は、大正12年(1923年)1月に創刊号が出版され100年になりました。
「私は、頼まれてものを言ふことに飽いた。自分で、考へてゐることを読者や編輯者に気兼なしに、自由な心持ちで云つてみたい」祖父の文藝春秋創刊の気持ちです!