閉門即是深山 418
誰にでも起きる危険
私の住んでいるマンションは、湾岸にあり、大所帯である。部屋数は、優に1000室を越している。住人は、何千人いるか把握していない。西側は、東京湾でレインボーブリッジや東京タワー、部屋の角度によっては、東京スカイツリー、冬の天気のいい日には、富士山まで見えるそうな。ただ、西日は凄い!冬は、よっぽどでなければ昼間は暖房要らずらしいが、夏ともなれば途轍もなく暑いと聞いた。夏の冷房の電気代を訊くのが恐ろしい!また、背の高い建物だから階上に住む人は、ひとたびエレベーターでも止まれば、階下にいたら動き出すまで身動きができない。痛し痒いしである。
その中でも何人か私と似たような爺様たちの友達ができた。友達と言っても、一階にあるラウンジで話をする程度であるが、皆、仕事もリタイアして暇を持て余しているし、耳も遠くなり上手く会話が成り立たない。昨年コロナで亡くなられた志村けんさんの作ったキャラクターで耳の遠いお婆さんを思い出して欲しい。我々の会話は、あの婆さんそのものだから一向に前に進まない。耳に手を当てて「えっ?」「えっ?」の連続である。まだ、「えっ?」と言うのは良い方だが、「えっ?」を言わずに「うん、うん!」と言っているのは、聞いていない時に違いない。聞こえている振り、これが私を含めた老人の特技である。
「危ないよね、駐車場に行く階段の扉」一番の先輩らしい温和な爺様が話しだした。私も何度も「えっ?」を連発した。その爺様の連れ合いが、スチール製のドアの事故で大怪我をしたらしい!どの扉かは、私に通じなかったが、何処かから駐車場に行く階段の踊り場に出るドアが内開きだったそうだ!ドアは、ガラスではなくスチールだから、その階段の踊り場に出ようとした奥方が、同時に入ろうとして扉を開けたドアにもろにぶつかった。外から開けた人には悪気はない。あまり使われる入口ではないのと、防犯のために窓の無いスチール製に設計したのが仇となったのだろう。
その事故以来、ドアには「人が居る場合があるので、閉開に気をつけて」と札が貼られるようになったが、奥方の怪我が心配であった。爺様の言うには、奥方は救急車に乗せられ最寄りの救急病院に行って検査を受けたという。しかし、いろいろな箇所の骨が折れ、その病院では施しようがないので、大病院に移ったと聞いた。その話を聴いていた「えっ?」の連呼の爺様たちは、車椅子に乗る奥方の姿を想像したに違いない。だって、温和で、聞き取りにくい喋りをする旦那が「車椅子だろうなぁ、部屋や風呂場も改造しなきゃならないだろう」と言っているくらいだから。
ひと月経った。温和な爺様の手には、そばにあるスーパーの袋がある。馴れない買い物のようだ。「ずっと妻に任せていたからなぁ、どこに何があるかわかりゃしない!」と呟く。呟きは聞こえにくいから、私は「えっ?」と言ってしまった。それからしばらくして、奥方のリハビリ期間が終わって家に帰ってくることが報告された。ある日、マンションのラウンジで、温和な爺様と杖をつくご婦人の姿を私は見た。
実は今、私の仕事のひとつに京大名誉教授森谷敏夫先生の「筋電メディカルEMS」の製作協力がある。奥様が元の体に戻れるように、筋肉造りの補助器具ができることを伝えたいと思っている。