閉門即是深山 391
入れ歯
2週続けて入れ歯の話で恐縮です。
「その活舌の悪い入れ歯を直してください!」強い口調で赤坂のオフィスの主幹に戒められた。「うぅぅ、そのうちに慣れるさ!」「いえ、それじゃ何を言っているか判りませんから!」もっと強い口調で戒められた。
「いやね、親父がね、高価な入れ歯を作ったんだよ!それも親友のお兄さんてのが歯医者さんで、それも保険の効かない歯医者だぞ!そこで、俺は半額にしてもらったなんて言って中古のベンツみたいな金額を言うんだ。総金歯なら溶かしてお金になるけど、どんな高価な入れ歯だって親父が使ったものだって息子の俺は使えない。
死んだ時、その歯の10分の1も現金を残していなかったんだ!ゆるせねぇ、そっと総入れ歯の一本一本を調べたよ、ダイヤでも埋め込まれてないかとね、ただの歯だった。入院費から全て俺に出させておいて400万円がたった200万円になったよ、と喜んでいる親父の顔を思い出して、俺の怒髪が天を衝いたよ。
金でもなきゃダイヤでもない、息子へ借金を残しやがって!パーコストだってよくないよ、作って4年で死んじまった。年に50万円だぞ!給料の2ヵ月分だ!だから、焼き場で親父の棺の中にぶち込んでやった。後で見たら、磁石に小さな板が張り付いていただけだった。だから、僕は、入れ歯を保険の範囲で作ってきたんだよ、あんなものなんの役にも立たないからね、いいだろ、このままで」
「そうはいきません!あなたとお父さんとの関係は、仕事とな~んの関係もない話です。これからは、お人の前でお話をして頂く仕事が増えます!その活舌の悪さをテープに起こして聴いてみれば判ります」
もっと、もっと、もっと強い口調だった。
私は、隠れて取材用の録音装置で試すことにした。活舌である。やるからには、とスイッチをオンにする前に「アオ、イオ、ウオ、エオ」「カオ、キオ、クオ、ケオ」アナウンサーのように鏡に顔を映しながら練習を30分は、した。
祖父・菊池寛の小説本『真珠婦人』や『父帰る』や『恩讐の彼方に』が収録された本を机に置き、録音機の電源をオンにした。ほらね、普通にしゃべれるだろ?気にし過ぎだよ、声は悪いよ、歌だって上手くない!でも活舌は「なんじゃ、こりゃ!」
自分で何を言っているか聞き取れないのだ!きっと30分の練習の時も「ふぁお、ふぃお」とか「きゃお、きょお」などと言っていたのに違いない。私の歯の主治医は、名歯科医で役者さんたちが通ってくるほどだ。
最初は、講演でしゃべりやすくなるために、薄手に作ってもらった。割れた!プラスティック部分に金網を入れた。割れた!
先生が悪いわけではない。私の歯は悪いが、顎が強いのだ!口の中や、鼻の孔の中、耳の穴などイヤホーンも子供用を使っているくらいに小さいのだが、顎が強いのだ!それに京大名誉教授森谷敏夫先生考案の“筋電メディカルEMS”の人体実験をされ(いえ、してもらい)、ボリュームを上げた時なぞ、悲鳴を上げたいのに負けん気が勝って、顎の力を入れる。
顎の力以外は、全て私の部位は弱い!「主幹、お願いします、私の歯を、私の歯を直してくださ~い!」今度は、プラスティックではなく金物で出来てくる。まるで、フランケンシュタインみたいに!