クマのプ―さん | 閉門即是深山(菊池夏樹) | honya.jp

閉門即是深山 319

クマのプ―さん

私には、渾名がない。名前が渾名のように使われるからだ!はじめて会ったひとからも「ナツキさん」と呼ばれる。近しい人からは、そのままナツキとか、ナッちゃん、ナッキーと呼ばれることが多い。
以前、プーさんと渾名をつけてくれた人がいた。私は、その渾名が好きだ。たぶん、私の体型からつけたのだと思う。フィギュアスケートで、羽生結弦がいい演技をすると客席からクマのプ―さんのぬいぐるみがリンク一杯に飛ぶ!会場が、クマのプ―さんで溢れる。へぇ~、クマプ―のぬいぐるみ、こんなに一杯売っているんだ!それにしても、どこの店も品薄状態になるだろうなと、みょうな心配をしてしまう。

A・A・ミルンが1930年代に描いたクマのプ―さんの物語は、90年近く経った今でも人気ものである。
1951年に自作『ノンちゃん雲に乗る』を書き一世を風靡し、1971年に『ピーターラビット』を翻訳した石井桃子が『クマのプーさん』の翻訳をした。

埼玉県浦和市で生まれた石井桃子は、日本女子大の英文学科を1924年に卒業している。当時女性は、早く嫁に行け!という、まさに男尊女卑の時代であった。そして、やっと女子大を卒業しても就職先が無かったし、お嫁に行こうとしても学士様と結婚など、そうそう相手が見つからなかった。
石井桃子は、在学中に私の祖父菊池寛のもとでアルバイトをしていた。外国の雑誌や原書を読んでまとめるアルバイトだった。あのころの作家の多くは、テーマを外国に求めていた。祖父は、東大の文学部で英語を習得して、訳、書きは堪能だったし、京大では、アイルランド文学を学んでいたくらい英語に近しかったが、忙しくなると何人かの女性秘書を雇い、原書の翻訳をしてもらっていたと聞く。石井桃子は卒業後、菊池寛が創設した文藝春秋に勤務し、永井龍男の下で『婦人サロン』や『モダン日本』の編集をしていた。

叔母がこんなことを言っていた。「お父さんがいつも言っていたことだけど、家で雇っていた女中さんを朝7時前に使っちゃいけなかったし、夜7時からは、本人が希望をすればお裁縫などの習い事に通わせていた。彼女たちの名前の呼び捨ても禁止で“さん”づけで呼ばないと怒られたのよ。私達姉妹には[手に職をつけて稼げ]とか[十を知りて一をも知らざる如くせよ]と書いた色紙をくれた」

菊池寛は、大学を出て就職口の無かった女性のために「文筆婦人会」を作り、月刊文藝春秋に求人広告を本人が書いた。「今度私達は、文藝春秋内に『文筆婦人会』と云ふのを組織致しました。私達は働きたいのですが、然し私達文筆婦人を使つて下さる処は容易に見当りません。しかし、私達を月に三四日宛使つて下さる仕事は、沢山ありはしないかと思ひます。私達はさう云ふ仕事を蒐めて働きたいのです。私達は、女性と云ふハンデキャップなしに充分働くつもりです。私達の過半は女子の最高教育を受けて居りますので、思操能力の点で充分皆さまの期待に副ふことが出来ると思ひます。どうか、どんな仕事でも結構ですから、御用命をねがひます。」昭和4年のことである。