内輪もめ | 閉門即是深山(菊池夏樹) | honya.jp

閉門即是深山 275

内輪もめ

後期高齢に近づいてきても、人間関係は難しい。

今、私は趣味でドラマーをしている。18歳の時、友人たちとバンドを組んだ。私より少し下の世代には、珍しいことではないだろうが、昭和30年代では稀有に近かった。音楽は、会場に出向くか蓄音器でエボナイト製のSPレコード、または、シングルでドーナツ盤といわれたレコードを聞いて楽しむぐらいしか方法が無かった。とにかく戦後の時代、今のように手軽に買える楽器なぞ無かったのだ。

ライブ会場なんか無い。練習貸しスタジオなぞ無い。あっても何百人収容の〇〇生命のホールを借りるとか、ビクターのような本格的録音スタジオしかなかった。我々は、ラッキーだった。祖父が残した大きな屋敷に、祖父が好きだったダンスのホールが自宅にあった。ホールには、サンテラスが庭に面していたから、さほど音が漏れない。大きな庭に大きな樹木が植えてあり、これも防音の役を果たしていた。

後は楽器である。今は、世界的に有名であるドラムメーカーのパールも創立されてまだ10年くらいだったろうか。アメリカのロジャースというドラムの真似をして作ったものの、粗悪で有名なメイドインジャパンの名が世界的であった頃だから、まだペナペナな楽器作りで、シンバルなぞ、バシャという音しかしない。私の学友の兄が神田で小さな楽器店を開いていた。連絡が入った。進駐軍が払い下げたアメリカ製のラディックのドラムが出たという。1ドル360円の時代だからそれはべら棒な値だった。まけてもらい、両親に借金をして、アルバイトをしながら借金を返した。皆もそうだった。なにせアンプは、真空管で、傍を通るとボヨボヨンと音がする。たぶん、環境と楽器が揃う人たちがあまり居なかったと思う。

エレキやドラム、ベースなぞ教えてくれる先生も居なかった。芸大の音楽家たちは、みなクラシックオーケストラの団員を夢見ていたから、ジャズやロックに興味を示してくれない。自分達がレコードを聴いたり、オープンリールの録音テープに曲を入れ何度も聴きながら研究した、素人集団だった。
が、各大学の部の費用集めのダンパが流行り出した。しかし、プロのバンドは高い。素人で下手でも安い我々のバンドのアルバイトの口は、溢れんばかりだった。

今、私はふたつのバンドのドラムを担当している。そのひとつが、18歳の時の仲間の生き残りを核にしたバンドだ。集まっただけでも嬉しく、楽器を持って歌うだけでも懐かしい。そんなことに酔いしれる者もいる。やるからにゃ、上手くなりたいという者もいる。音に深みを持たせたいと頼んで入ってもらった中年のキーボード担当が、ある日突然キレた!練習もしないで来て、毎回同じところを間違えるんだったら、集まってもしようがないと言う。ごもっとも!
しかし、70過ぎの老人なのだ。楽器を持ったまま突然倒れ、楽しく死にたいのだ!きっと、ね!