閉門即是深山 266
ふっと気がつくこと
1ヶ月も経って正月の話も可笑しいが、今年の東京の正月は穏やかだった。北海道からの帰京客難渋したらしいし、祖父のご先祖が住んでいたといわれる肥後熊本の菊池川周辺は、震度6弱の地震に襲われたが、別段のことは無かったらしい。
昨年12月26日に生きていたら祖父は、130歳になる。人生100年時代と言われるから、今後、そのくらい生き続ける人が出てくるかも知れない。ちょうどその日、春風亭小朝師匠の独演会が新宿紀伊國屋ホールで行われた。毎年何作か菊池寛の作品を落語化してくれている。7回目になる「菊池寛が落語になる日」は、菊池寛作品『小野小町』と『葬式に行かぬ訳』が落語になった。祖父は、行かねばならない義理のある葬式でも時々行かなかったと聞く。泣き顔を他人に見せたくなかったのか、それとも途中で面倒臭くなったのか判らないが、我々にもよくあることだ。「葬式なぞは、もう死んでしまっている本人の為にあるものじゃない。残された者の為にあるんだ。僕は、死んだ知人のことを心に思うことにしてるんだよ、葬式なんかに出なくたっていいのさ。そいつのことを思い出してやれば、それで良いのさ」祖父らしい。
話をガラッと変える。
昨年の5月末でいったん休憩を取っていた趣味のドラムのレッスンを私は、12月から再開した。2年半の基礎練習を終えて、2年以上ジャズドラムを先生に教えてもらってきたが、この歳になるとなかなか身に沁み込んでこない。身につかなければ、本番で使えない。
そこで、先生に猶予をもらって、教えてもらったフレーズを自己練習で半年間、何回も何回も繰り返してきた。じゃぁ身についたのかと言えば、NOだとしか言えない。若いころは、何でも砂に水をかけるように身に吸いこんでいたものだが、今じゃぁ、身体や頭が反発する。昔は、一度も聞いたことのない曲でも、何回か聴いているうちに口ずさむことが出来たが、何十回聴いても覚えなくなってきた。
67歳になった時に、いい年食ってドラムをイチから教えてもらうことにしたのは、すべての趣味を捨ててドラムにかけてみたかったのと、頭や身体を柔軟にして、出来るだけ老後の認知症を遅らせたかったからであった。ついでに体力がつけば儲けモノだと思った。しかし、その半年間の猶予は、私に別なモノを教えてくれた。ドラムは、ただ打つモノではなくて、歌うモノだと知ったのだ。今の自分の心の中を表現するのに打っていたって伝わらないと思った。ドラムの前に座った時、哀しいか、楽しいか、ハタマタ怒っているのか。曲に合わせた時、その曲が喜びを語っているのか、悲しみを語っているのか、皮肉っているのか、表現を変えねば、聴いてくれている人に伝わらない。音楽って、そんなものじゃないか?ドラムだって、表現する楽器なんだよ!そんなことを考えるようになった。そして、ドラムが、もっと楽しくなった。
よっしゃ、今年も頑張ろう!