閉門即是深山 221
富岡の長昌寺
私は、土日祭日、基本的には仕事を受けないようにしている。これは、祖父菊池寛時代からの家の約束事で、日頃忙しさにかまけて家庭を顧みない菊池家の男達に対する家訓と言ってもいい。しかし、仕事は受けないが、祖父の場合、競馬だけには行っていたらしい。
この2月18日の日曜日、約1年前からの講演のご依頼があった。日曜日だから逡巡したものの、講演はお客様の集まり易い曜日でなくてはなるまい。それも祖父の親友の作家直木三十五さんの南国忌の会での講演である。南国忌は、直木さんの代表作『南国太平記』から取ったものだろう。家訓だからとも言えなかった。
場所は、富岡の長昌寺というお寺さんだそうだが、その富岡がどこにあるのかも私は知らなかった。ご依頼下さった会の主催者の方は、しきりに京急電車の駅です。とおっしゃるが、そもそも京急電車に乗ったのが今までに2回きりである。
直木さんは大阪生まれで、亡くなった時は、歌舞伎座近くの木挽町にあった文藝春秋倶楽部に住んでいたと聞く。そこで祖父と碁の勝負をしていた昭和9年2月9日、囲碁が終わった後にひとりで帝大医院に入院した。そして、24日、脊椎カリエスと結核性脳膜炎のために夜11時4分、入院先の呉内科で帰らぬ人となる。43歳だった。文春倶楽部に住んでいたころ確か、鎌倉に住んでいたと聞いたか、読んだことがある。富岡の長昌寺にひとりで行ける自信がなかった。
「鞆音さん、こんどの南国忌で話す事になって、もし、行かれるようでしたら連れて行ってもらえませんか?」直木三十五さんの甥、植村鞆音さんに電話をした。待ち合わせは、当日の10時55分に品川京急駅の改札口にした。11時過ぎに急行が出るからだ。
その日は、お日様が顔を出し、春を呼んでいるような日であったが、底冷えがした。品川には、1時間も前に着いてしまった。煙草と珈琲、私の必需品である。品川駅の変わり様に驚いてしまった。子供の頃に通ったスケートリンクは、ファッション・モールである。珈琲は飲めたが、煙草は無理だった。京急で3~40分くらいで上大岡で普通に乗り換え、金沢文庫のひとつ手前の駅、京急富岡で降りた。小ちゃな駅だった。
鞆音さんから一歩後を付いて行く。少し前まで、湾であったらしい風景も埋め立てされ住宅で密集されている。歩くこと20分「直木がたった一ヶ月だけしか住まなかった屋敷跡によってみる?」鞆音さんの声にうなずいた。「直木が、自分で設計した家なので、でき上って見たら不便な個所が多くてこっけいだよ」祖父が大仏次郎さんに笑って話した家は、跡かたも無く碑だけがある。335坪の鬱蒼とした土地だけである。家は、平成23年7月だから、7年前の夏に解体されたという。残念である。
長昌寺には、テレビスタッフが待っていた。他のお寺から移したというお墓の前で、これから講演する直木さんと祖父の絆を話すためにカメラに向かった。