閉門即是深山 188
直木さんの「南国忌」
明治24年、1891年2月12日に生まれた直木三十五は、祖父菊池寛より3歳若い作家で、代表作に『合戦』や『南国太平記』、『楠木正成』など素晴らしい、そして面白い作品を持つ。
祖父の親友直木さんは、1934年2月24日43歳の若さで逝ってしまった。作品を読んでいない方でも直木賞と言えば判ると思う。
南国忌とは、その代表作品『南国太平記』からその名をとり、直木三十五を偲んで命日のころに集まる『忌』である。大阪で生まれた直木さんは、本名植村宗一と言った。彼は、早稲田の高等師範英語科の月謝を未納して中退したが、登校は続け、卒業写真にも写っているという豪傑だったらしい。大正9年、祖父の親友久米正雄や里見弴などと雑誌『人間』の編集に携わっている。直木さんは、大正12年の関東大震災の後、川口松太郎や画家の岩田専太郎と共に大阪のプラトン社に勤務し、娯楽雑誌『苦楽』の編集に携わる。そのころから時代小説を書き出したようだ。ペンネームは、植村の「植」をばらして、直木にし、31歳だった年をそのまま使い、直木三十一とした。毎年、下の名前を変えたのである。翌年は、直木三十二、次が直木三十三と、しかし三十三は、「さんざん」とか「みそそさん」と呼ばれ、縁起も悪く、34歳の時に直木三十四としたが、編集者の勘違いから「直木三十三」と書かれてしまい、私の祖父からも「もういい加減やめろよ」と言われ、直木三十五に収まった。
彼と祖父との出会いは、直木さんの甥で直木さんの弟植村清二氏のご子息植村鞆音氏の著書『直木三十五伝』から引用すれば、昭和28年文藝春秋新社から刊行された宇野浩二の『芥川龍之介』の中に「芥川龍之介、菊池寛、宇野浩二らと宗一(直木三十五の本名)との初めての出会いとなった大阪講演旅行が詳しく書かれている。」とある。菊池寛と出会ったのも、大正10年、直木さんが雑誌『人間』の編集をしていたころのようである。先も書いたが、直木さんと祖父は大親友だった。芥川さんは、親友であったがライバルでもあった。菊池寛は、大衆文学価値を純文学に匹敵させようと直木三十五賞を創設したのではないだろうか?
いま、駒場の日本近代文学館に「直木・菊池(囲碁)の手直り表」がある。木挽町にあった文藝春秋クラブを棋院に見立て二人の囲碁の対局であった。昭和9年1月11日から2月9日までの6日間分である。最後の9日の日、直木は脊髄カリエスによって帝大医院に担ぎ込まれ、24日結核性脳膜炎のため夜11時4分に死去した。私は、来年の2月18日(日)横浜長昌寺での第36回南国忌に講演せよとのご依頼を受けている。偉大な大衆文学作家の死である。