歯 | 閉門即是深山(菊池夏樹) | honya.jp

閉門即是深山 171

私の歯は若いころから頗<すこぶる>る調子が良かった。もちろん虫歯で痛い思いをしたことは幾度もあったが、その度に貴方の歯は硬くて良い歯ですよ、と歯科の先生から褒められたものだった。
しかし、42歳の大厄の年に歯がポロポロと抜け落ちだした。それには、訳がある。何かの根拠があっての話ではないが、私が勝手に思っている歯ポロポロの原因は、胆のう炎のせいである。大厄の年に胆石があることが発見された。それも大きな石が三つもあった。最初は、お腹が痛くなって、あちこちの大病院を訪ね、調べてもらったのにどの病院も気が付いてくれなかった。ある病院は、直ぐに胃カメラを呑めという。順番待ちをしている間に恐くなった私は、ロッカーからそっと自分の服を取り、病院で着せられた青い上下服を待合室の長椅子に置き去りにして、診察表を病院の外のコンビニのゴミ箱に丸め捨て、逃げ帰った。腹の痛みは続いた。仕方なく主治医の小病院に行った。院長は、不思議なことを私に訊ねた。お腹の他に痛いとこあるの?私は背中の右肩甲骨の下も痛いです、と答えた。そりゃ、胆石だよ、ちょっと診るね、あっ、やっぱり胆石があるねぇ、痛いだろうねぇ、でも貴方は、編集の仕事で忙しそうだから手術より石を溶かす薬の方がいいかも知れないな。薬を呑む治療で1年がたったが、結果胆石が溶けずに歯が溶けた。胆石は、手術で取りだした。極端に言えば、歯は食事をするたびにポロリと抜け落ちた。刺身を食べていてもカリっと硬いものを噛む、それが抜けた歯だった。

私の祖父・菊池寛は、59歳で他界したが大分以前から総入れ歯だったらしい。随筆や他の者の逸話にも、菊池寛が湯飲みに入れ歯を入れて置いたのを忘れ、そこから茶をすすって家族から顰蹙をかっていた話が多い。歯が良い私も結果、総入れ歯まではいかないものの、入れ歯が必要になった。そう言えば、亡くなった父も叔母も総入れ歯だった。私は、自分の住むマンション内にある歯医者に通って上下の部分の入れ歯を造ったが、何度やっても上手く合わない。結局何年も放置することになってしまった。私の仕事は人前でお喋りすることが多い。そんなとき、歯無しの自分が嫌になってしまう。しかし、カタカタと喋りにくいのも嫌である。
常連になった喫茶店の2階に歯科がある。喫茶店のママの弟とその息子さんの病院である。意を結して飛び込んでみた。歌舞伎役者の方々も来ると言う。口の中を見られる役者衆が来るからには、名人上手に決まっている。先生は、歯の治療も義歯造りも全てご自分でやっているようだ。ぴたりと私の口にハマった。病院は、いろいろ自分で探して掛からねばという意味が判った。