閉門即是深山 157
腹
祖父・菊池寛の終の棲家となった雑司ヶ谷の洋館は、昭和12年に建てられた。
母屋は洋館で、渡り廊下を挟んで純和式の昭和初期建築の建物があった。当時文壇の大御所と言われていた菊池寛邸を訪れる客は多く、応接室だけでも8~10畳の洋間が3つと、広間と呼ばれていたサンテラス付きの洋間があった。その応接間は30畳以上あったように記憶する。
家のあった豊島区雑司が谷一丁目は、今では地下鉄有楽町線の護国寺駅徒歩5分の距離にあるが、昭和初期では、交通の便も悪く、東京市の範囲も小さかったから、イメージとしては現在の高尾山あたりにある屋敷といっても過言ではなかったと思う。母屋に台所がひとつ、離れにもうひとつ。そして、敷地内にもうひとつ家が建っていたから台所ももうひとつ。3つは、あった記憶がある。
母屋の洋館の台所といえば、ペンションのそれ、有名レストランのそれに近い大きさであった。
先に述べたように東京の中心部から多くの客が遠方に来る。その方々に昼食を出さねばならないから台所も大きくなければならなかったようだ。
昭和12年の建物である。しかし祖父の寝室は狭く、一台のベッドを入れると足の踏み場にも困ったくらいらしかったが、ドア一枚の隣の部屋の書斎は大きく、バルコニーも付いていた。もうひと部屋書斎から通じる部屋があった。風呂場である。いやバスルームといった方が正しいと思う。何回も書くが昭和12年に建てられた洋館の母屋だけで11部屋もあった建物のバスルームに、大きなガスボイラーが設置され、現在では高級な洋服屋のショウウインドウの飾り物でしか見られなくなった足付きの琺瑯<ほうろう>のバスタブと洋式の便座があった。たぶん、当時帝国ホテルや横浜グランドホテル、日光の金谷ホテルぐらいにしかなかっただろうバスルームが、そこにはあった。
結局、昭和23年3月6日の夜、彼は便座に座り狭心症のために急逝したのだが、今回の話は別である。
永井龍男氏、松本清張氏、井上ひさし氏、その他著名な作家たちが彼のことを書いているが、全ての著書にかならず出てくる逸話がある。
「菊池寛は、絞りの帯をだらしなく結び、いつも尻尾のように引きずって……」かならずどこかのシーンに出てくる、菊池寛のトレードマークである。
確かに、だらしなく、頓着する性格ではなかったようだが、この帯の尻尾には、真相がある。まず、心臓が悪かったせいで帯を強く結びたくなかった。もうひとつの理由は、腹が出ていて結び辛かった。決してだらしがなく帯を結んだのではなく、強く結ぶことを敢えてしなかったのだ。
菊池の血筋は、下腹が出るのではない。強いていうならば、「上腹」が出ているとでもいおうか。具体的にいえば、臍の上が出ている。腹を山に例えれば、臍は、2合目か3合目にある。その上が出ているのだ。現在は医療の進化で、それは内臓の廻りにへばりつく脂肪といわれている。内臓脂肪である。どうも人間が毎日食物を摂れなかった大昔の時代、きっとラクダの瘤のような役目のために内臓脂肪が付いて、生き延びていたに違いない。が、今食物は採取出来る時代になり、本来この装置はいらなくなった。盲腸が昔、何の役目だったか私は知らないが、やはり大昔には必要な臓器の一部だったのだろう。
祖父の家には、トイレが5ヵ所もあったが、和のトイレで祖父の部屋にだけ洋式のトイレであった。「上腹」が出ていた祖父には、洋式が便利だったのだ。腹が出ていて、和式は辛かったのだと思う。5年近く前に、祖父・菊池寛の長男で私の父英樹が亡くなった。亡くなる前に主治医が、大きな病院を紹介するから全身の検査をするようにと父に迫った。私もその場にいた。父の体型も「上腹」が出ていたが、病気のためか痩せていた。しかし、腹だけは出ていた。主治医が「そのお腹は、どうも腹水が溜っているようだ!」と、父は「菊池家の男どもは皆腹が出ている。先生、見て下さい、倅だってこんなに腹が出ているでしょう!」と言うのだ。その後の検査で父の腹には、主治医の言う通り腹水が溜っていた。暫くして父は身罷った。
私の「上腹」もすごい!ある先輩が「内臓脂肪はなかなか取れないから食事のときにご飯に大麦を混ぜて食べると良い」と言う。この人は、私が勝手に野菜博士と呼んでいる。以前、文藝春秋に勤め、週刊文春に彼が連載した『遥かなる野菜の起源を訪ねて ~イネ・ムギ・野菜 日本への道』を上梓した。なかなか調べ抜いた名著の作者だから、その言葉は信用できる。5年近くでよく出た私の上腹が簡単にひっこむわけは無いが、よく会うひとから「ねぇ、少しお腹がひっこんだんじゃない?」と先だって言われた。大麦上腹ひっこみシンドローム解決策が成功したら、このブログでご報告する。
祖父・菊池寛についていくつかのご報告がある。再来年、菊池寛生誕130年を迎える。死後70年である。死んで記念日とは、複雑な思いだが、じょじょに記念の準備を始め出した。
毎年、高松市菊池寛記念館、高松市、菊池寛顕彰会が高松駅前のサンポート・ホールで行う文化講演会で今年11月18日(金曜日)15時半から林真理子さんの講演を予定している。その後、林真理子さんと私の30分の対談もある。
林さんは『最終便に間に合えば』と『京都まで』という短編で第94回の直木三十五賞を1985年に受賞している。私は、そのときの社内選考委員のひとりで、傑作を書かれる才人だなと合点した覚えがある。今、林真理子氏は直木賞の選考委員を務められている。また、懇意にしている北方謙三氏が、今年の菊池寛賞を受賞された。なにか私の近くでモノ事が動いている気がする。
◆ 菊池寛記念館第25回文学展記念講演会「私の仕事から」
http://www.city.takamatsu.kagawa.jp/12185.html
(入場整理券の配布は、定員に達したため締め切られています)