閉門即是深山 154
祖父・菊池寛のルーツの旅(その十)
何でも思い立ったら、やってみるべきだとつくづく感じている。今年ノーベル賞を授賞された大隅良典博士も、好奇心があればやってみれば良い、とおっしゃっている。私は、なにもこのルーツの旅で知っていたことはなく、父に祖父が言っていた言葉だけを頼りにスタートしてみた。だめでもともとという気持ちだった。肥後菊池一族の末裔とは知っていたが、どう繋がるか何も判らずスタートしてみたのだ。ただし、一番知りたい部分は、祖父が菊池一族の何処に繋がるかだったが、袋小路に入り出られなくなるかも知れない。それも覚悟していた。
私は、このブログを使って私の知りたい事、息子に伝えておきたい事を書き続けてきただけだった。しかし、神は、いた。好奇心があればやれば良い、誰かが救ってくれるという典型であろうと思う。少し前に1通のメールが届いた。菊池一族の末裔の方で、使用掲載の許可も頂いたから、まずそのメールから書き出す。ただし、改行は、この頁に合うようにさせて頂くことにした。
「前略、私、菊池一族の末裔で澁谷龍と申します。偶然、菊池夏樹様の閉門即是深山を拝見し、拙書『探求菊池一族』のことに触れられていることに気付きました。所望しておられるとのことで、贈呈したくメールした次第です。送付先のご住所をご教示載ければ幸甚です。菊池寛さんのルーツについて、十数年前になりますが、拙書(部分)を添付致します。草々」
これは、すごい!胸が躍った!
ただ、仕事でパネルディスカッションをしたり、京都の日本ペンクラブの例会で司会をしたりと、踊る胸を抑えねばならなかった。頂いたメールにご返事が出来たのは、4日後であった。興奮醒めやらない心を抑え、震える手でパソコンのキーを打ったのだ。
澁谷龍氏の手紙に書かれていた「拙書(部分)を添付」とは、2枚の菊池寛の逸話「11.菊池寛の先祖探し」と一枚の家系図である。2002.5.28と数字が書き込まれている。たぶん、この原稿は、14年前に書かれたという意味か。私や父たちのたぶん知らない逸話である。これを読むと祖父・菊池寛も自分のルーツを知らず「ルーツ探しの旅」をしていたようだ。
小田原駅構内の一角に目立たない石碑がある。それは昭和16年7月22日の暴風雨で警戒中、殉死された小田原駅長松本宇一氏の功彰碑である。生前、氏と寛氏が親しかった関係で碑文の撰文、筆跡を寛氏が担当し翌昭和17年建立されたものである。この時、除幕式に出席した寛氏が松本駅長の友人である中野敬次郎氏(当時、小田原中学教師 現小田原高校)に会い、自分の先祖探しを依頼したという。中野氏が系図探しの名人であると云う事を耳にした寛氏が、詳しい調査を依頼したのである。当時、文壇では吉川英治氏の祖先が小田原藩の「五石二人扶持の足軽」だったと云う話が一寸としたセンセイシヨンを起こしていたらしく、地元小田原を始め作家連や週刊誌でも話題になり、寛氏もそれに刺激を受けてのことだったらしい。吉川氏の祖先を探したのも中野氏であつたことから、除幕式の序<つい>でに、という事であつたようだ。中野氏著作の「小田原近代百年史」にその経緯が詳しいので以下御紹介する。
菊池氏は私と挨拶をした最初から、
「あんたは系図探しの名人だそうですなあ。」と言つた。
荒れ果てた真夏の天守台の東屋の中で、菊池氏が突然、
「私の祖先も探してくれませんか。」と言い、言葉をついで、
「私の祖先も小田原の出身で北条氏の家臣であつたのですが、詳しいことが解つておりませんから調査して下さい。しかし私の家の遠祖は南朝の忠臣の九州肥後の菊地氏なので、吉川英治さんの祖先より大分格がよさそうだから、いくら詳しく調べてもらつても恥かしくはないからねぇ。」とも言つて笑つた。
さて、菊池寛氏の祖先のことであるが、その祖先は小田原北条氏の家臣であつた。北条氏康当時の永禄年間に作られた小田原衆所領役帳(小田原分限帳)の中、
菊池掃部丞
五十貫文、豆州下松本
三十貫文、河越給内二而被下
菊池郷左衛門
二十三貫文、久良岐郡岩間
二十貫文、御蔵出
菊池右近丞
十貫文、鎌倉内康国内、此外二十貫文河越筋棟別反銭之目録被下
十貫文、御蔵出
などの記事があつて、一族が相当に栄えて各地に知行を持つていたことが知られる。
ところが天正十八年(1590)豊臣秀吉の攻略によつて小田原城が落城した時、北条氏直が高野山の麓に幽居を命ぜられ、近臣三十余人と雑兵三百人とを引具して行つたが、その近臣三十人の中に菊池七兵衛という人物のあることが「関八州古戦録」の中に見える。これが菊池氏の祖先であつた。要するに祖先は小田原北条氏の当初からの家臣であつたが、天正十八年北条氏直の高野山麓の地に幽居の身でありながら、このように多数の家臣を連れて行くことを許されているのは、秀吉が、北条家は名家ゆえ、折を見て再び大名として取り立てる考えであつたからで、随従の家臣達は、それを頼りに待つていたが、その実現を見ないで、氏直は翌天正十九年大阪表で病死してその直系も絶えたので、やむなく家臣達も四散した。菊池七兵衛は氏直の歿後高野山で剃髪し、京都に静か閑居したが後伊勢に移つて死し、その子は大坂で儒者となつたが生活思わしからず、孫の時鹿児島に下つて島津家に仕えてその儒臣となつた。しかし島津藩は大身ゆえ、すでに召抱えの儒臣が多く、その後塵を拝するに過ぎず不遇をかこつた。たまたま四国讃岐高松藩の招きがあつたのに期を得て、これに応じて讃岐に移り、その後家運も開けて、維新の頃まで、高松藩の儒臣として暮した。菊池寛氏の高松出身なのは、このような家柄の由来があるからであつた。
天守台上での二人の対談は約二時間ぐらいに及んだが、真夏の太陽が西に移りかけると、東屋の中にも陰がなくなつたので、どちらからともなく、
「下に降りましょう」と言つて、本丸から二宮神社に出たが、境内にある茶店を見つけた菊池氏が、「氷を食べませんか」と言つて、自分から先に立つて入つて、一気に二杯ずつの氷を食べたが、菊池氏は氷を食べる最中でも汗を拭いていた。神社の林では蝉が烈しく鳴いていた。菊池氏とは是非もう一度会つて、いろいろ歴史上の話をすることを約して別れたが、間もなく氏は世を去つてしまつて、約束だけになつてしまつたのである。(「澁谷龍氏よりの文章」より、逸話等は、中野敬次郎氏の著書より抜粋されたように思われる)
さて、澁谷氏より共に贈られた祖父・菊池寛に至る系図がある。詳しくは、次週のブログにまわすが、とりあえず書いておく。ただし頁の都合一部を、省く。
1、武宗(菊池七兵衛)菊池肥後守武房末葉 天文年中相州小田原北条氏康ノ臣
→2、武茂(菊池七兵衛)北条氏臣下也 太閤秀吉公小田原ヲ滅ス 於 是従 北条氏直於高野祝髪号安枕 及氏直薨 奉其孤閑居于洛陽 土方河内守雄久ヨリ穀二百石ヲ賜 勢州小者領地死
→3、武方(菊池元春)江州膳所城主本多縫之助康俊儒者ニ召抱 三君ニ仕フ 延宝五年丁巳正月廿四日死
→4、武倍(菊池八右衛門)武方妾腹トアリ初メ石川主殿頭臣ト成リ定府ニ罷在在故而去ル 讃岐山田郡木太村ニ来ル号崇心斎
→5、正宅(増田太兵衛)
→6、武賢(菊池八右衛門、正宅二男)高松藩儒 号黄山 安永五年三月一日死八十才
→7、武保(養子、八右衛門)号室山 天明五年七月三日死
→8、縄武(養子、八太夫)号守拙 文政五年四月四日死
→9、武幹(号藻洲)
→10、武章(号惕州)
→11、武脩(タケナガ 妻カツ)
→12、武吉・寛(武脩四男)
ついに繋がりました!
武脩は、祖父・菊池寛の父、カツさんは、母。そして、菊池武吉さんは、祖父の長男です。7、武保の子供に菊池五山がいたらしいのです。最初に書いた「武宗おじさん」は、第十代当主肥後菊池武房に繋がっていました。
澁谷龍さん、ありがとう!祖父とともに、感謝しています。