祖父・菊池寛のルーツの旅(その八) | 閉門即是深山(菊池夏樹) | honya.jp

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祖父・菊池寛のルーツの旅(その八)

私の父・英樹は、生前「お爺ちゃんの血筋には西郷隆盛がいてね、これお爺ちゃんが言っていたことだよ!」ちょっと鼻高々に言っていたことを思い出した。
確かに、藤原政則が肥後に行き、現在の菊池市に定着し政則の子政隆が菊池の姓を名乗るようになった。さて、西郷ドンと菊池寛の繋がりは?

西郷隆盛は、文政10年(1828年)に生まれ、明治10年(1877年)9月24日の午後4時ごろ政府軍が鹿児島の城山を総攻撃したとき、西郷ドンは、股や腹に被弾した。

「晋ドン、晋ドン、もうここらでよか」と共にいた別府晋介に言った言葉は、有名である。別府は「ごめんなったもんし」と叫んで西郷隆盛の首を刎ねたという。
西郷隆盛満49歳、享年51であった。
西郷ドンが、あと13年62歳まで生きていたら、菊池寛の誕生をもしかしたら知ったかもしれない。お釈迦様でもあるめいし、遠い親戚に男の子が生まれたって、気が付かなかったろうが。
祖父・菊池寛は、明治23年12月26日に生まれた。西郷ドンとは、遠い、遠い、親戚である。西郷隆盛は、西郷三助、大島吉之助、大島三右衛門の他に菊池源吾や志士として活動をしたときは、菊池次郎という名を使っている。

なぜにこんなことを書きだしたが、私には判らないが、このブログを管理しているK某さんという怖~い編集人が、次は「西郷隆盛の事書きなさい!NHKの大河ドラマになる前に書け!」。気が弱い、体力もない私は、はむかうことも出来ずに書きだしたわけである。えっ、大河ドラマって一年間続けるあれでしょ?それをたったこの枚数で書くの?そう!へぇ~!

西郷隆盛の祖は、菊池初代の菊池則隆の長男西郷政隆だった。初代則隆には、男の子が4人いたらしい。長男政隆、次男小島保隆、三男兵藤経隆、四男合志経明の4人である。その後、菊池一族を継いだのは、三男の兵藤経隆だった。
長男が継がなかった訳は、今では判らない。長男政隆は、現在の熊本県菊池市七城町(当時の西郷)に住み、西郷氏と称したのが始まりのようだ。
実に簡略であるが、この西郷政隆から各代の主だった人名を記してみる。

西郷政隆→隆基→隆季→隆房→基宗→隆純→九兵衛→吉兵衛→覚左衛門、この辺から怪しくなるが、ただ西郷隆盛の系図から先祖帰りしてみると、吉兵衛と覚左衛門の間に隆充という名前がある。この隆充に吉兵衛(九郎)と大山家の養子となる彦八という人名が出てくる。
西郷隆盛は、吉兵衛の子供である。8人兄弟であったようだ。長男隆盛、イト(どのような字か不明)、琴、隆廣(吉二郎)、鷹、安(安子)、従道、隆雄(小兵衛、隆武)の8名だった。

隆房の後から枝分かれしているようだ。私が、ちょっと怪しいと書いたのは、私が持っている系図には、途中の吉兵衛→覚左衛門の次に又、吉兵衛→覚左衛門と書かれてあるからで、間違って重複して書いたものか、確かにこの人たちがいたのか検証出来ないからである。

ただ、間違いなく菊池家と西郷家は、菊池第一代当主菊池則隆を父に持つ兄弟であった。西郷吉兵衛隆盛を父に持って文政10年(1828年)に生まれた西郷隆盛は、子供のころ、小吉と名付けられ、通称吉之介と称した。また、善兵衛、吉兵衛、吉之助と名を改め、元服して隆永を名乗り、後に武雄、隆盛の名前となった。名付けのときに訳があって、それ以降父の名前隆盛を名を使ったらしい。
父の吉兵衛隆盛が7代目、よって、吉之助隆盛は西郷家8代目となる。
二弟の吉二郎(隆廣)は、戊辰戦争で戦死。
三弟の従道は、明治政府の重鎮となる。四弟の隆雄は、西南戦争で戦死をした。
明治に活躍した陸軍大将の大山巌は従弟だったし、海軍大将の川村与十郎も、隆盛の親戚筋にあたる。
49歳という若さで自害した南州隆盛の命日は、明治10年(1877年)9月24日であった。

菊池五山のときにも書いたが、もし西郷ドンが薩摩への帰郷後、明治4年に新政府に復職したとき、同じ薩摩藩の友人大久保利通や長州藩の桂小五郎(木戸)などと対立していなければ、自分が鹿児島で創設した私学校の生徒の暴動から起こったこととはいえ、西南戦争の指導者として城山で敗れ自刃しなければ、祖父・菊池寛と会っていたかも知れない。
世の動きや人生はそんなもんだが、祖父も西郷ドンのことを私の父に臨場感溢れる言葉で残してくれていただろうし「お爺ちゃんの親戚筋に西郷隆盛がいてね、」くらいでは、済まされなかったろうに。
ただ、菊池五山も西郷隆盛も我が祖父・菊池寛も通してその性格や業績をみると、3人共に儒学の精神、朱子学の心を持っていた。
いや、きっとそのためにあのような生き方しか出来なかったような気もするが、私の考え過ぎであろうか?