閉門即是深山 149
祖父・菊池寛のルーツの旅(その七)
夏休みももう終わり、私は今年70歳になったからこの機を利用して、祖父のルーツを探す旅をしてみました。夏休みの期間中だから早旅です。遠い昔から、飛鳥時代、奈良時代、平安時代、鎌倉時代、南北朝、室町時代と本当に急ぎ足で歩きました。
古代の鞠智伝説から始まって、本姓藤原氏として、九州肥後の国菊池郡(現在の熊本県菊池市)を本拠として朝廷に尽くした菊池一族は、安土桃山時代、1576年(天正4年)織田信長が滋賀県の琵琶湖の付近に安土城の築城を待つことなく、後柏原天皇朝の御代1504年~1521年(永正の時代)のころに、その勢力を失い、菊池一族は終焉を迎えることになった。
今回の菊池一族の話は、肥後菊池氏を追跡したものであって、菊池一族の流れを汲んだものに陸奥菊池氏や海路で青森に上陸し岩手県遠野にたどりついた遠野菊池氏、常陸菊池一族、下野国菊池一族と全国に菊池一族の庶流がある。
また、支流、分家には、肥後氏、豊田氏、八代氏、大河平氏、宇土氏、赤星氏、甲斐氏、米良氏、城氏、西郷氏、志岐氏、そして、字は変わっているが菊地氏も同じルーツが多い。誰が調べたか出典は判らないが、全国に「菊池」が12万人程、「菊地」が約9万人いるそうな。
ここに来て、困ってしまった。いや、参った!江戸あたりまで家系図があれば「菊池寛のルーツの旅」ももっとしっかり正確に作れるものを、江戸時代のちょっと前で「終焉」を迎えてしまった。澁谷龍氏著書『探究 菊池一族』(宮帯出版社刊)でも手に入れれば、安土あたりから江戸に繋げられるかも知れない。
澁谷氏の著書紹介文には「初公開となる紺野菊池家に伝わる古系図を基に、『菊池氏』の祖を探る、定説・志方説を覆す新資料の数々も多数掲載。初代である則隆が尊卑分脈に記される藤原政則の長男であることを裏付ける資料の数々を括目して見よ!その後肥後に渡り歴史の陰に生きた一族のルーツを探る!」とある。欲しい!ただ152頁で2,500円+税もするのだ。ちと高い!
そこで、私は私の父親、菊池寛の長男菊池英樹の言葉を思い出した。「江戸時代にお爺ちゃんの親族に菊池五山ていう偉い漢詩人が居てね……」
こりゃ手掛かりになるかも知れない。まっ、長い時代を追っかけて来たんだから、安土桃山時代くらい飛ばしたって判りゃしないだろう、なんて都合の良いことを思ってしまった。どうも祖父・菊池寛は、菊池五山のお兄さん菊池守拙の子孫らしい。それじゃ、菊池五山は、私の大、大、大……叔父さんということになる。
菊池五山は、名前を桐孫(まさひこ)といった。五山は「号」で、通称は左太夫という。号は「娯庵」ともいったらしい。「字」は「無絃」。ますますややこしい。江戸時代の後期、1769年(明和6年)に高松藩の儒者の家に生まれ、1849年8月15日に没している。80歳近くまで生きたらしい。香川県(讃岐)生まれだから、私の祖父と一緒である。
五山が没した1849年は、イギリス船が浦賀に来航した前年であった。また、明治元年は、1868年~69年に跨っている。80歳で没しているから当時としては、相当の長生きであっただろうが、100歳まで生きられれば江戸の世が移り変わり、明治の世を見ることが出来ていたのだ。
菊池寛は、その明治21年に生まれている。ということは、五山は、菊池寛の祖父の兄弟か、曽祖父の兄弟といったところだと思う。
菊池桐孫、号・菊池五山は、少年時代讃岐高松で後藤芝山から詩を学んだ。そして、京都で柴野栗山に入門した。1788年(天明8年)19歳のころ師の栗山が幕府に儒学者として招かれたのを機に、菊池五山も江戸に移っている。そして、市河寛斎の江湖詩社に参加し、大窪詩仏や柏木如帝等と詩人として活躍するようになった。寛政の末年に伊勢に罪を負って流れ落ちたが、文化初年、江戸に戻った。五山39歳の1807年(文化4年)に中国清の袁枚<えんばい>の『隋園詩話』に影響を受けて、漢詩の時評誌ともいえる『五山堂詩話』を刊行した。
『五山堂詩話』は、およそ26年間に正編10巻、補遺5巻を刊行している。
これは、同時代の詩人たちの作品を紹介したもので、批評もしている。文化・文政期の漢詩批評詩として大きな役割を果たしている。菊池五山は、この『五山堂詩話』の成功を足がかりに、日本の漢詩界にジャーナリズムをもたらした。また、批評家としてもその地位を固めた。当時讃岐に渡った菊池氏は代々、高松藩のお殿様に儒学・朱子学をお教えする先生の役職であった。菊池寛の曽祖父または祖父の弟であった菊池五山も晩年には、讃岐に帰り高松藩にも出任している。五山の名号は、肥後菊池の豪族菊池武光により同地に定められた臨済宗寺で、輪足山東福寺、無量山西福寺、手水山南福寺、袈裟尾山北福寺、九儀山大琳寺の五山、または武光の菩提所として建立した熊耳山正観寺などを指す。
この五山を、名号にしたのではなかろうか。
なぜ敢えて、私が菊池五山の話をここに書いたかと言えば、菊池寛は、世で出会えなかった大叔父の菊池五山に影響を受けていたのではないかと思ったからだ。菊池寛は、明治になり倒された高松藩に本来お勤めする一族の人間だった。が、明治維新が世の中を大きく変えてしまった。彼は、貧乏な元士族の家に育ち、讃岐を出て東京に向かった。遠廻りはしたが、結局東大で文学を京大で戯曲を学び、小説家となり、『文藝春秋』を創立、現在の日本のジャーナリズムの基礎を創った。また、芥川・直木賞を創設したし、日本文藝家協会も作った。ふたりの人生を重ねてみれば、あまりにも酷似している。菊池寛は、五山を誇りに思い、自分も五山のようになりたかったのかも知れない。