閉門即是深山 144
祖父・菊池寛のルーツの旅(その四)
このブログを読んで頂いている読者は判らないが、この厄介な「自分のルーツ探しの旅」が面白くなってきてしまった。他人の家で、ちょっと待っててね、このアルバムでも見ててよ!なんて言われても、まったく面白くねぇ~!だから、きっと読者も欠伸をしていると思うが、書いている本人が面白くなってきてしまったのだから、しょうもねぇ。付き合うか、電源を落とすしかあるめぇ!
時代を源平や鎌倉時代に戻す。菊池一族は、源氏にも平家にも一定の距離をおいていた。今の熊本菊池市あたりの在地の勇者としての意地もあっただろう。10代菊池武房の子隆盛には、次男時隆と長男武時という息子がいた。ふたりは、武房の孫である。菊池時隆が11代当主になり、続いて武時が菊池一族の第12代目の当主になった。
後醍醐天皇側についた第12代武時は、元弘3年(1333年)に阿蘇惟直や大友貞宗、少弐貞経と共に鎮西探題の北条英時を襲ったが、善戦していたにも関わらず貞宗と貞経の裏切りで空しく博多の探題館内で討ち死にした。そして、武時の遺志は嫡男13代武重が継ぐことになった。建武の新政権が成立された後、楠木正成の推挙もあり武重は、肥後守に任ぜられた。父武時の武功は高く評価を受け、その息子たち、菊池武重、武澄、武敏も叙任を受けた。武時の息子は、13人いた。第13代を武重、14代を武士、15代を武光と兄弟の中の3人が当主を継ぐこととなる。時は、南北朝時代に移っていた。
「大叔父上、これは」
「槍じゃよ。全部が槍じゃ」
「槍……。こんなに沢山」武重は目を見張った。
この時代、槍は非常に新しい武器であった。日本人が槍を初めて見たのは、わずか五十数年前の元寇(げんこう)の時である。その時モンゴル軍は、密集した歩兵隊の槍ぶすまを作る戦法で、一騎討ちしか知らない日本の騎馬武者を大いに苦しめたものである。
この時の苦しい経験から、日本でも槍の有効性が注目されつつあったが、それ程普及した武器たり得なかった。なぜなら、日本における戦の主体はあくまで騎馬武者であって、しかも槍は、太刀と比較すると馬上で使いにくい武器と考えられていたからである。
上記は、祖父・菊池寛が自らのルーツを使って戯曲として書いた『菊池千本槍』の一節で、元弘3年(1333年)に建武中興ののちに背いた足利尊氏と菊池一族が戦った時の話である。菊池一族は、大いに尊氏を苦戦させたという。
話は、菊池武時約千名が、足利尊氏の弟、足利直義軍三千余名と対峙したとき作り出した秘密兵器が「千本槍」だった。菊池寛の戯曲を続ける。
例えば、弓を射るためには両手を使わなければならないが、その場合、長い槍は太刀のように手軽に収納できないので、不便な武器と言えるわけである。それで、菊池武重も槍の有効性をあまり信じていなかった。
「大叔父上、こんなに沢山の槍をどうなさったので」
「どうなさった、とは面はゆい。おいが延寿に特注して作らせたのよ。名付けて、菊池千本槍。どうじゃ、格好いいだろうが」
これは、菊池寛が映画の大映のために創作した戯曲の一節である。大叔父とは、いったい誰のことであろうか?武重の父は、武時である。武時は、祖父の武房から当主の座を継いだ。なら、武重の祖父に当たるひとだろうか?対象者は、7人いるが、直径ならば、無冠の祖父隆盛か堀川道武か。
菊池寛は、昭和19年に大映で『菊池千本槍 シドニー特別攻撃隊』を製作している。99分の映画で演出は、「吉野時代・維新篇」を池田富保が、「現代篇」を白井戦太郎が担当した。配役は、菊池武時を吉井莞象、菊池武重を市川右太衛門、菊池武吉を阿部九州男、菊池武敏を多岐征二、菊池武光を戸上城太郎、そして、平野国臣を月形龍之介、藤尾博之が小林桂樹であった。
私は、この映画を観れないでいる。私の早逝した長男の勇樹も観たがっていた。
菊池寛は、『月刊文藝春秋』昭和18年の6月号にこの逸話について次のように書いている。
「熊本へ行ったとき、シドニー攻撃の勇士、松尾海軍中佐の生家を訪問した。お父さんもお母さんも、立派な人であった。松尾中佐は、○年の○月帰省したのが最後であったが、たった二泊の短い帰省であるに拘らず、数理離れている隈府の菊池神社に参拝したそうである。しかもシドニー攻撃には、菊池千本槍を短刀に仕込んで携帯したそうである。菊池千本槍とは、短刀の形をした槍の穂先である。建武二年の暮れ、武時の子、武重が箱根水呑峠で、足利直義と戦ったとき、竹を切ってその先に、短刀を結んで新武器としたという伝説があるが、爾来菊池勢の槍の穂先は、短刀の形をしているのが特色である。」
上記のように、この槍は箱根・竹の下の戦において作られたものらしい。菊池神社は、慶応4年(1868年)皇室に忠義を尽くしてきた菊池一族を称え、明治天皇が熊本藩に菊池氏を顕彰し祭祀を行うよう命じ、武時、武重、武光、第16代武政以下26が配祀されている。北方謙三氏の著書『武王の門』は、後醍醐帝の皇子と武光の「民のための新しい国造りの物語」を描いている。