閉門即是深山 135
映画は大映
祖父・菊池寛が、娘の瑠美子と妻包子と住んでいた東京市駒込神明町317番地から市外田端にある室生犀星宅に移ったのが、大正12年9月の末である。この年の1月には、東京市小石川区林町19番地の貸家で雑誌『文藝春秋』を創刊している。35歳であった。そして、7月、本郷区駒込神明町に移り、この地で9月1日午前11時58分32秒に起こった関東大震災に遭遇した。
理由は定かではないが、借家の神明町の家を追い出されている。想像を働かせば、震災で壊滅的状態にある東京で大家さんの親戚の中に困った人がいた人がいたのかも知れない。他人に部屋を貸しているゆとりがなく、「済まないが!」と言われたような気もする。そのころは、妻・包子のお腹の中には、臨月近い私の父・英樹がいた。大災害の中、家を探さねばならなかった。そのころ、ちょうど田端に住んでいた親友芥川龍之介が良い知らせをくれた。大地震に恐れをなした室生犀星が、故郷の金沢に移り住むから田端の家が空くという知らせだった、そして、慌てて引っ越しをしたのが、9月の末だった。父英樹は、田端の家で10月12日金曜日に生まれた。家族は、4人となった。芥川が室生との仲立ちをしてくれていなければ、私の父は、路傍に産み落とされていたかも知れない。その頃、芥川龍之介から室生犀星にあてた書簡が残っている。
「竹垂るる窓の穴べに君ならぬ菊池ひろしを見たるわびしさ」
かなり芥川は室生に遠慮をし、ごまを擂っていたようにも読める。
3か月弱の後の12月、菊池寛は家族と文藝春秋を引き連れて市外高田雑司ヶ谷金山339番地に引っ越しをした。なにせ祖父は、引っ越し魔だったらしい。後に菊池寛を慕った川端康成が、彼の書物の中で香川県高松から東京に出てきた菊池寛が25回も引っ越をしたこと、そしてその住所も書いてくれていた。私にとっては、素晴らしい資料でありがたいことだが、川端さんもかなりオッカケ魔だったのではないかと思う。
その雑司ヶ谷金山の家は、借家だったがモダンな洋館だった。菊池寛が移り住むまでは、著名な文学者・新関良三が住んでいた。彼は『西洋演劇史』『日本演劇史』など多数の著書を持つが、『シラー選集』などの翻訳もある。また著作『ギリシャ・ローマ演劇史』で彼は、恩賜賞を受賞している。
また、その家のある細い路地を2、30歩ほど歩くと着き当たりに大漢和辞典の編者で大学者の諸橋轍次の家があった。諸橋轍次は、1917年から中国に留学した経験からこの世界最大の漢和辞典と呼ばれる『大漢和辞典』を1940年代初頭に大修館出版から刊行した。因みに、3年前に亡くなられた三菱商事会長諸橋晋六氏は、轍次氏のご子息である。
さて、雑司ヶ谷金山には、菊池寛は昭和12年まで住み、同じ雑司ヶ谷で金山から徒歩5分の場所に自身の家を建てるまでのここを生活の拠点としていた。文藝春秋社は、大正15年6月、この金山の菊池寛邸から離れて旧有島武郎邸のあった麹町区下六番町10番町に移った。が、社員の多くが下宿をしていたため、そのまま雑司ヶ谷金山の家を借り続けていた。
そして、現在にいたるまでの91年間、ここを借りていたのである。この家には、菊池寛の長男英樹と次女西ヶ谷ナナ子が最近まで住んでいた。私の父が逝ったのが、あの東日本大震災の年であった。また、一昨年次女のナナ子も逝ってしまった。多くの人たちが出入りした金山の家は、無人と化してしまった。
栄枯盛衰は、必ずある。諸行無常とはよく言ったもので、全てのものごとは、常では無い。父や叔母が住んでいた家に入ると人けの無くなった死んだような家の空気を感じる。91年間と長きとは言え、借りたものは返さねばならない。感傷に浸る間は無い。どこから手を付けていいやら困る。2人の衣類や家具、父のコレクションだったレコード板、細かい物は、置いておく他はない。ただ、万が一、祖父・菊池寛の使っていた品を見落とすわけにはいかない。研究者のためにも、高松市菊池寛記念館のためにもである。1~2度は、捜索してほとんどの物は、見つけ出し高松に送ったが、これが最後のチャンスだった。
あった!ごみ溜めのような中から何枚かの変色した紙だった。菊池寛が永田雅一に懇願され初代社長になった証。それは、菊池寛の名前の入っている映画製作会社大日本映画、「大映」の株券だった。作家としての遺品は、数多いが大映との繋がりのあった証拠の品は少ない。見落とさなくて良かったと思う。映画の大映株式会社は、昭和17年1月に設立された。そして、昭和46年12月23日に倒産したが、その後、徳間映画となり、現在は、角川映画となっている。名前は変わっているが、祖父の残した仕事の一部は脈々と受け継がれているのだと私は思う。
昭和26年11月1日発行の『大映十年史』を開くとウオルト・デイズニーから「親愛なる大映におくる」というメッセージが寄せられている。
大映株式會社創立十周年を卜するに當り、貴下並びに、日本の映画制作及び配給會社として貴下が建設された此の立派な組織に對し、茲に心からなる祝辭を呈することは私の最も欣快とするところであります。
當社の映画が大映株式會社を通じ日本國民諸君に宏く紹介されたことは我々として洵に喜びにたえぬところであり、今後とも貴社と契約下にある當社の長篇及び短篇映画が引續き成功裡に配給されることを期待してやまぬ次第であります。
一九五一年九月五日