閉門即是深山 134
若葉美しき、初夏の色
そろそろ府中競馬場が美しくなる頃だな~ぁ!
と、思っていた時にJRA日本中央競馬会からお誘いを頂いた。
G1レースのひとつNHK杯である。
何年前からであろう。もう7、8回になるか。JRAから春にお誘いがくる。なにも私が、競馬界に特別な貢献をしたわけではない。祖父・菊池寛の七光である。祖父の印税は、私には入ってこない。日本では、著作者の死後50年で印税は無くなる。世界では、70年と聞くからTPPにでも加入すれば日本でも死後70年までは、遺族に印税が入るであろう。よくこれを著作権が無くなったという人がいるが、そうでは無い。著作権は、永久件であって、印税を求めることが無くなるだけだ。国民が自由に読むことの権利を優先しただけのことなのだ。もし、著作権自体も無くなったら、私が夏目漱石の『坊っちゃん』をそっくりそのまま丸写しをして、私の名前で出版することが出来ることになる。盗作とはならないわけだ。そんなはずはないし、私自身、日本文藝家協会で菊池寛の著作権継承者となっている。
話を戻す、祖父の七光と書いたのは、祖父が競馬狂だったからである。
祖父が、競馬にのめり込んで以来、多くの作家が追随した。吉屋信子、船橋聖一、『宮本武蔵』の著者 吉川英治もそのひとりであった。
吉川英治氏の長男・吉川英明氏が書いた『父 吉川英治』(講談社文庫)の中にも「父と競馬」という項がある。競馬と吉川英治さんと祖父との関係がよく書かれているので、引用してみる。
父の楽しみの一つに競馬があった。
父の競馬歴は古く、母に聞くと、初めて競馬へ行ったのは昭和十三年だというから、ちょうど私の生まれた年である。
そのころ、菊池寛氏が大変な競馬ファンで、父も菊池氏に手ほどきを受けたのだそうだ。
菊池氏にすすめられて馬も持った。初めは菊池氏と共有の馬で、名前も、菊池と吉川を合わせた“キクヨシ”とか、英治と寛からとって“エイカン”などとつけたという。
自分だけの馬で、“ナツクサ”とつけた馬もあったが、菊池氏が、
「ナツクサやつわものどもの夢のあと、か」と父をからかったところ、その馬は本当に、新馬戦に勝った後熱を出して、それきり使えなくなってしまったという話もある。
吉野村へ越してからも、戦後競馬が再開されると早速出かけた。(中略)
競馬へは必ず母が一しょだった。私や弟も、たまに連れていってもらった。
馬主席での常連は、菊池寛氏、船橋聖一氏、吉屋信子氏、永田雅一氏らで、時々、高峰三枝子さん、霧立のぼるさんなど芸能人の顔も見えた。
父にとっては、月に何回か東京に出て来て、そうした友人達と会話を交わすのも楽しみだったようだ。
菊池氏は、英明という私の名付け親でもあり、えらい人だとも聞かされていたので、恐る恐る挨拶したが、双眼鏡を胸にかけ、煙草の灰をポトポト膝や胸にこぼしながら、絶えず上着のポケットから南京豆を出して食べているといった風で、
「これが、そんなにえらい人なのかな」
と思ったのを覚えている。
吉川英明氏が書かれたこの本に、吉野村が出てくるが、吉川英治の家は、赤坂表町にあった。『鳴門秘帖』、『親鸞』、『宮本武蔵』、『三国志』、『新書太閤記』など氏の代表作を書き終えた後、昭和19年3月、そろそろ空襲で危うくなった赤坂の家から都下西多摩郡の吉野村に疎開のために、引っ越しをした。現在の青梅市柚木町である。
この青梅市柚木町には、吉川英治氏の足跡を残す吉川英治記念館がある。梅は、だいぶ害虫にやられ切り倒されたとニュースでは聞いたが、のどかな武蔵野の里の風情が残されている所なので、一度文学散歩などしてみると良い。そばには、有名な造り酒屋もあるので、呑ん兵衛には特にお薦めする。
まぁ、このブログは、観光案内ではないのでこのへんにしておくが、私の名前も祖父が名付けてくれた。よって、吉川英明氏と私は、義兄弟のようなものかも知れない。
馬の話に戻れば、祖父は、50頭以上の競馬馬を持っていた。一覧表をもらっていたが引っ越しのどさくさで、紛失してしまった。
しかし、その中の10頭くらいには“トキノ”を付けていたと思う。“トキノ”は、祖父が書いた小説『時の氏神』から付けた名前だろうと思う。『時の氏神』は、幸福を呼ぶ神様をたとえたもので、現在で言えば“ラッキー”と言えるのではなかろうか。
祖父の持ち馬に“トキノチカラ”や“トキノハナ”などがいて、ずいぶん活躍したと聞く。永田雅一氏の持ち馬で「幻の名馬」と言われた“トキノミノル”も祖父が名付け親みたいなものだ。そうとなれば、トキノミノルと吉川英明氏と私は「三人の兄弟」になるのであろう。