閉門即是深山 132
幸せとは?
熊本で被害をお受けになられた方々にお見舞い申し上げます!
といっても、あの震災からひと月あまり経ってしまった。
阪神淡路の大震災、東北太平洋岸の大震災と、この10年あまりで考えられぬほどの大きな震災が三つも続いた。
神も仏もあったもんじゃない!ととるか、神や仏を何か怒らすことをやってしまったのじゃないか!ととるか。非科学的な人間である私は、考えてしまう。
東北の震災のとき、ニュースを見ながら、新聞を読みながら、しかし、原発の事故にあまりにも気が惹かれて、ついつい震災を注視しなかった。今じゃ、反省している。
今回の熊本や大分の大震災の報道を見たり、読んだりしていて、不謹慎だが、幾つかのことを考えた。
それは、私がこの何年間か漠然と考えていたことだ。答えが出たとは思っていないが、この最近起きた三つの大震災から少しヒントを貰えたような気がする。それは、人間にとって何が大切か、幸福の基はなんだろうか、ということだ。あくまでも私感である。
私は、このブログで日本ペンクラブのことを以前書いた。日本ペンクラブは、日本が戦争に突入する少し前に国際連盟を脱退したとき、イギリス発祥の国際ペンからセンターの一員にならないかと誘われ、島崎藤村を初代会長として出来あがった。国際ペンのフラッグは「平和」である。各国にある国際ペンのセンターは、全てこのフラッグの基で活動をしている。
しかし、私には、この「平和」とはなにか、あまりにも抽象的で判らない部分がある。当然「平和」はスローガンで「平和」を望まない人間はいないと思う。90%以上の人間は、その「幸福」の要素のひとつに「平和」を置いているのではないか。もうひとつ、私が所属している組織に「健康」がある。これも、人間の「幸福」の要素のひとつであろう!
しかし、何か抽象的で漠然としている。もちろん、このふたつに多くの人間は頷くと思うが、「平和」や「健康」では、当たり前すぎるのでは?判りにくいのでは?
この九州の大震災をニュースで読み、聞きしている内に、人間の大多数が求めている「幸福」の最低条件を知ることが出来た。
もちろん、個別的な条件は多用、多々あるだろうが、それを言ったら再現がない。ひとりひとりの欲望は、千差万別だからだ。
震災で見えてきた「幸福」の条件とは、
1.水が欲しい!
(これは、飲み水だけでなく、トイレを流す水、身体や髪を洗う水等が含まれる)
2.寒さや清潔を保つための衣類や毛布が欲しい!
(人間は、獣のような環境に適する能力を持っていない。寒さを防ぐような体毛など大昔に捨てている。その分、知力が発達したのかも知れない)
3.食糧が欲しい!
(もちろん、カップ麺やおにぎりなど配られているのをニュースでは見るが、野菜などは不足してしまう)
4.子供のオムツや離乳食、老人用のオムツや、生理用品などが欲しい!
(このようなものは以前は存在しなかった。が、現在では、どれも人間に密着した必需品になっている)
5.トイレが欲しい!
(避難場所でとても困るのが、トイレの数だ。いくら大きい建物でも常に何万人という数の人間がそこで生活出来るようには、設計されていない)
6.足が伸ばせて、雨風凌ぐ家が欲しい!
(プライバシーが無いと言ってニュースでは騒ぐが、そんなものではないのではないか?昔は、ひとつ屋根の下、爺ちゃん、婆ちゃん、親戚一同供に暮らしていた時代もあった。あかの他人でも長屋住まいや、向う三軒両隣という言葉もあった。プライバシーとか個室の考えは、長い歴史の中では、ごく最近のことだろう。昔のような大家族制でもいいから、ゆっくり足が伸ばせて、心配せず寝られる場所が欲しいということだろう)
7.情報が欲しい!
(私のように東京に住んでいる人間は、九州で何が起こっているか、一日中テレビの前に座っていれば、かなりの情報を得られる。その上に、新聞・雑誌等を読めばなおさらである。現在は、九州地方の天気予報まで手に取るように情報が知らされる。しかし、停電にもなり、家が壊れテレビやラジオ、新聞もこない現地の人たち、一番、情報が必要な人たちには、なかなか届いていない)
8.医療やいつも使っている薬が欲しい!
(その薬が無ければ生きられぬ人もいるだろう。疲れのために病気になる人や、地震のために精神を冒される人もいるに決まっている)
まだまだ、あるだろうが、被災された方々がまず欲しい物は、こんなところだろうか?要は、これ以上の欲は、欲望であって、人間の「幸福」の必要用件では無いのじゃないか?ただの物欲にほかならないのじゃないか?
ほとんどの宗教哲学が言っているように、今までは、本来不必要な物を、人間達は追い求め過ぎていたのではなかろうか?
もういちど考え直す良い機会かも知れない!「幸せ」ってなんだろう?って!