閉門即是深山 7
高血圧には、気をつけて!
天才漫画家、藝術的漫画家、滝田ゆうさんが1982年10月8日、脳血栓によって左半身が麻痺してしまった理由に、きっと私の強引な原稿依頼があったのだと、その後、ず~っと悔やんでいる。無理をさせず、1回くらいの連載を休載すれば良かったかも知れない。その決断に私は躊躇した。
そもそも泥鰌先生は、遅筆だった。いつも原稿は、ぎりぎりに入った。だから、今回も同じだと思った。遅筆で遅れているのか、身体の不具合で遅れているのか、判断はつかなかった。泥鰌さんもいっさい泣きごとをいわない人だった。でも、担当者としては、難しくても、見抜かなければならなかった。私の判断、重大だった判断の間違いは、多くの滝田ゆうファンを失望させてしまった。泥鰌さんからあの天才的漫画を、藝術的漫画を奪ってしまった。私は、その時、若かった。人間が病で倒れることを、安直に考えていたのだろう。実感が伴っていなかったのだろう。病を風邪か擦り傷ぐらいにしか考えていなかったのだろう。いや、考えていなかったのだ。滝田さんの奥さまにも2人のお嬢さんにも謝らなかった。1990年だから、泥鰌さんが脳血栓で倒れて、8年後、肝不全のため58歳で逝かれた後も、ご家族には、優しくして頂いた。狭山の泥鰌さんのお墓の前で、一緒に手を合わせた時も、国立などで一緒に食事をした時も、謝ることが出来なかった。きっと私の心の中が整理されていなかったのだと思う。
しかし、泥鰌さんに不幸をもたらせたのは、直接的ではないにせよ、私も関与していたような気がする。今もその想いは続いている。悔いているのだ。
脳血栓で国立の大きな病院から退院された後も、泥鰌さんは、私を可愛がってくれた。
倒れて何ヶ月経ったのだろう。リハビリ時間も少なくなったころ、今までのようにお宅に行っては、おしゃべりをしていた。
お酒の好きな泥鰌さんは、よく新宿のゴールデン街や国立の駅近くの飲み屋に入り浸っていたが、さすがに酒も断たねばならず、寂しそうだった。後で聞いた噂だが、泥鰌さんは、長い間血圧が高かったらしい。
「著者急病のため休載にしてあります」
「もう、漫画は、画けないよ!」
「滝田さんは、漫画家だけど、エッセイストでもあるから!」
「今は、無理でも、暫くしたら随筆なら書けるようになるかも知れないなぁ」
「それじゃぁ、そんな頁が出来るか編集長と相談してきましょう」
雑談では、そんな話をしたと思う。そんな話をすると泥鰌さんの顔が明るくなった。
「ねぇ、編集長、漫画は難しいけど、滝田さんのエッセイは、なかなかのものですよ、新宿のゴールデン街の人間模様なんて良いじゃないですか。野坂昭如さんや黒鉄ヒロシさんや多くの有名なひと達の飲んだくれ模様の連載随筆を滝田さんにお願いしましょうよ」
「君ね、闘病記ならば良いよ!」
噛みあわなかった。自分が起こしてしまったかも知れないのに、闘病記をお願いすることなど出来ない。でも勇気を振り絞った。
「君の頼みでも、そりゃ無理ですよ。まだ、退院して間もないのに、整理が付いていないのに」
泥鰌さんが、言うのももっともだし、その通りだった。「連載」は「終了」となった。
それから、8年も経った。私は、コミック雑誌の編集長になっていた。編集長は、毎日机の前に座っていなければならないらしい。私は、机の前が嫌いで、ちょくちょく外出をする。編集者たちとの妥協案で、私は、そのころ出たばかりの携帯電話とやらを持ち歩く羽目になった。
それを買うために私は、何十万かポケットマネーを出した。月々の使用料は、確か8万円くらいだったと思う。電話機も、いま家庭内に据えられる親子電話の子機より少し大きなものだった。
何かのパーティーに参加していたと思う。その大きな黒い携帯電話が鳴った。私の背広の内ポケット全てを占領している携帯電話がけたたましく鳴ったのだ。
「菊池さん? 滝田ゆうの家内です。いま、滝田は、肝不全で!」
私は、茫然とその黒い大きな携帯電話を持ったまま立ちすくんでしまった。