閉門即是深山 452
高松城桜御門完成!
「高松の歴史文化再発見 『藻城の月~アルナン~』から公益法人松平公益会の佐伯理事長との対談トークショー」のご依頼があった。依頼状の企画書には、『高松松平家 頼聡公と弥千代姫「弥千代、万代の栄」(仮)』その下に「~玉藻公園、披雲閣大書院にて~」と書かれてあった。私にはチンプンカンプンである。しかし、私は「はい!」と返事をしてしまったのだ。また、いい返事をしちゃった~っ!後から臍を噛んでも仕様がない!そこで、遊びの合間を探して資料集めに走った。
香川県高松藩の城主は、徳川御三家中納言水戸家筋から選ばれるお殿様で、徳川家康が外様大名を西国に置いたために私の考えでは、お目付け役や外様大名たちの動静を江戸に知らせるスパイ的役目も持っていたと思う。大きな成果を挙げてくれた大名を徳川家も放っておくわけにも行かず、そばに置けばいつ寝首を掻かれるとも限らない。それに、遠ければ参勤交代の時に外様大名たちに大金を使わせることが出来るのだから一石二鳥だった。島津藩、薩摩も長州も外様である。
1846年弘化3年に弥千代姫は、まだ彦根藩の部屋住みだった井伊直弼と千田高品の養女静江との間に生れた。運命とは面白いものである。弥千代姫が生まれた10日後に、直弼は異母兄であった彦根藩主の井伊直亮の養子となったのだ。そのたった4年後の嘉永3年1850年に直弼は、彦根藩井伊家の藩主となった。高松松平家も彦根井伊家も江戸城詰めの大名であった。直亮の正室は高松の8代藩主頼儀の娘である。
一方、弥千代姫の嫁ぎ先高松藩主松平頼聰は、水戸藩主斉昭の甥で最後の将軍徳川慶喜の従兄弟という関係だった。弥千代姫12歳の時、水戸藩松平頼聰へのお輿入れとなったが、そこに花嫁の父の姿はなかった。父・井伊直弼が急に、お輿入れの2日後に大老職に就いたのだ。そして、安政の大獄、桜田門外の変と続いた。1860年安政7年3月3日、弥千代姫の父直弼が殺害された。彦根藩は譜代大名の家柄であったが、いち早く薩長の新政府軍を支持した。高松藩は幕府軍につき朝敵となった。
弥千代姫は、切り離された!運命と言っていい!文久3年1863年松平頼聰と弥千代は離縁するしかなかったのだ!また運命が動いた!世の中は、明治維新で天地がひっくり返ったのだ!仲の良かったふたりのカップルは、明治5年に復縁し、5男2女の子宝に恵まれた!弥千代姫は、復縁に際し千代子となった。
ご依頼は、弥千代姫復縁150年記念講演だった。確かに関係がないでも無い。私の祖先は、藤原武士から菊池武士と名を変え、平家、源氏、北条を支えた。節操がない家だと私は思っていたが、実は大将はどうでもよかったのだ。天皇家さえ守れれば!勤王の武士の面目だった、明治天皇からは、菊池代々に熊本の鞠智城の跡に菊池神社が送られている。北条の後武士を辞め、儒者となり、高松松平家の儒者博士となったのだ。祖父の映画に『末は博士か大臣か』があるが、この博士とは、儒者のことである。