神田川 | honya.jp

閉門即是深山 78

神田川

私は、現在東京の東南、東京湾に接した街に住んでいる。
最近、テレビコマーシャルなどを見ていると私が住む建物の直ぐ下にある遊歩道から見る景色が背景になっていることが多い。東京湾やレインボーブリッジなどが映し出されたコマーシャルを見ることがあったら、あ~ぁ!この辺だと思って頂いても間違いがないだろう。
東京のオリンピックが決まってから、この辺りはいやに忙しくなった。オリンピックの競技場や選手村、またそのアクセス、そして築地市場の引っ越しと突貫工事が多くなったせいだと思う。
新しい道や新しい橋がやたらと造られ、機材や砂利など積んだ大きなトラックが走り廻っている。
また、人口も増えたのだろうか。現在では、珍しいことだが新しく小学校や中学校、高等学校の建設も始まった。大きな病院も出来た。
人口減少、過疎とはまるで無縁、反対な街が出来つつある。

私は、東京の雑司ヶ谷で生まれた。都の西北である。が、早稲田ではない。
目白台と言った方が判りやすいかも知れない。江戸時代は、この豊島区や文京区の一部、新宿区も豊島郡と言った。江戸の外であり、豊島という一族が治めていたらしい。
私も目白台や原宿に移り住んだことがある。原宿は、遠い親戚が仕事で海外に住まねばならぬからと言って、一時借りて住んでいた。
そして、その後、20年を中野区の野方に住まいを移した。駅は、西武線の野方だが、住所は若宮だった。鷺宮が人口増加になり新しく街を作ったのではないかと思われる。だから若宮。ここは、皇居から早稲田を繋いだ線上にあった。野方は、都の西北に位置していた。
この辺の地名は、面白い。落合、沼袋、野方、鷺宮、井草。何か水に因んでいるし、土地から自然発生された地名に感じる。
調べてみた。

江戸時代天正18年、であるから西暦1590年になる。徳川家康は、江戸の町を築くと江戸庶民のために上水を造るよう命を発した。
そして、造られたのが神田上水であった。
神田上水は、現在の三鷹、井の頭恩賜公園を水源とする。ここに湧水口が七ヶ所あったらしい。たぶん父部の山々あたりから地下に潜った水が、ひょっこりとこの辺りに顔を出したのではあるまいか。
家康は、この井之頭池を「御茶ノ水」と名付けたとされる。
井之頭池を起点とした神田上水は、途中補助水源として善福寺川と妙正寺川を併せて小石川の関口大洗堰に至った。
藤田観光の資料を読むと、その関口大洗堰は、現在の江戸川公園あたりである。
ここには、江戸川橋という橋が架かっている。桜の名所でもある。
現在は他の地に移っているが、江戸時代には、この堰に沿って目白不動があった。ということは、江戸と郊外の境がここにあった。
さて、神田上水は歌になった「神田川」である。
井之頭池からの流れに、善福寺川と妙正寺川が出会う所が、落合で、中州の袋を沼袋と呼び、鷺が飛び交う場所を鷺宮と地名を付けたのかも知れない。昔の人の命名は、粋であった。
落合から早稲田に沿って流れる神田川は、江戸川橋をくぐって大きく右に曲がり込む。ここの地名を大曲と呼ぶ。
川は、飯田橋から御茶ノ水に向かう。一部は、飯田橋でお堀に注がれているのかも知れない。御茶ノ水から神田を流れた川は、江戸時代の大川、現在の隅田川の河口付近から海へと入る。
その辺りが、現在私が住んでいる街なのである。
結局、私は、神田川の中腹から上流に移り住み、今度は下流に住んだことになる。神田川とは、縁が切れない。けして意識したわけではないが、結果そうなった。

神田上水は、桜の名所が多い。上記したように江戸川公園も見ごたえのある桜であるが、井の頭池から、川添えの全てが桜の名所と言っていい。また、飯田橋から御茶ノ水にかけての桜も見事である。
実は、知られていない桜の名所がひとつある。
私の住まいのすぐ傍に桜の大木がずらりと並ぶ。佃大橋から春海橋に突き当たり豊洲方面に向かった一帯の桜並木は、素晴らしく誰にも教えたくない。日本ユニシスのビルを目指せばすぐに判る。
もし、このブログをお読み頂いたら、ここに書いたことをすぐに忘れて欲しい。
桜が散って、東京湾に浮かぶ姿、美しさをひとりじめにしたいからである。