閉門即是深山 113
最高と最悪
司会者が私の名前を呼んだ。
演台のマイクの前に立った私は、一瞬驚いてしまった。
高松駅前にあるサンポートホール高松の外は、雨だった。雨の日の客入りは、多く見積もっても7割になる。特に高松の交通手段は、自転車が多い。地方では、どの家でも交通手段のために小型の乗用車をよく使う。ひとりに一台無いと動けない場所もある。高松は、四国の県庁所在地だからバスは頻繁に出ているようだが、電車のアクセスもあまりよくないだろうし、むろん地下鉄などは無い。郊外に出れば車か自転車になる。高松駅は、官庁街ではないが、駐車場を探すにしても、また料金を考えても自転車は、便利な交通手段だ。私が定宿にしているホテルに打ち合わせに来られる人たちも「自転車で来ましたもんで」などと言っているから、高松の人は、家から会社の往復に自転車を使うことが多いのだろう。定宿のホテルの部屋から見下ろすと高松港が一望できる。瀬戸内海の小島に家を持ち、高速フェリーなどを交通手段にして高松で働いている人たちも多そうで、港にある大きな駐輪場は、いつも自転車でいっぱいである。
雨の日は、自転車を使うには、当然不便である。
「7割のお客さんが来てくれれば、相当のひとが来てくれたと思わないと」と、誰かがいった。私も「雨」ということで期待をしていなかった。驚いたのは、350席の小ホールではあったが9割近くの席が埋まっていたからだ。
菊池寛記念館第24回文学展 記念講演会の始まりだった。私は、私の前に挨拶をされた大西市長や市民のみなさん、お手伝いや協賛してくださった市の職員、菊池寛顕彰会、菊池寛記念館の皆さんにマイクの前でお礼をいい、本日の講師を快く受けてくださった新井満氏を舞台に呼んだ。
毎年の行事で、この辺までは同じだった。
新井満さんは私と同い歳で、しいていえば彼は私より一カ月先輩である。1988年に文藝春秋で刊行した『尋ね人の時間』で第99回の芥川賞を授賞している。電通の社員だったころ、長野冬季オリンピック開閉会イメージ監督を務め大成功をさせた名プロデューサーだった彼は、電通を退職後も肩書が多い。
作家であることは無論だが、他に作詞作曲家、写真家、環境映像プロデューサーなどもある。「僕は、若いころ絵描きになりたかったんだよ!」というぐらいの絵心もお持ちのようだ。私は、満さんの描いた絵を見たことはないが。
この講演会で私は例年、司会や進行役や講演後の対談者役として出演している。毎年、講師のお名前を呼んで舞台にあがって頂く。講師は、舞台の上手から現れることを常としていた。しかし、この日は違った。「では、新井満さんをお呼びしましょう!盛大な拍手でお迎えください!あ・ら・い・ま・ん・さん、どうぞ!」私は、上手の黒いカーテンの方に手をやり、舞台の袖を見た。そこには誰もいなかった。
心の中で「えっ、満さんは?」。私は慌てた!ところが会場がざわめき、拍手が起こっている。そして気付いた。新井満さんが、客席後方の扉を開けて、客席を縫いながら舞台に向かってきたからだ。さも五木ひろしや北島三郎、氷川きよしのライブのように。そう言えば、演台の脇にもう1本スタンドマイクがあり、そこに譜面台がおかれているのも不思議だった。
新井満さんの講演は、客席を飽きさせなかった。講演あり、震災のときに1本だけ残った松の心をよんだご自身の本の朗読あり、講談社、朝日新聞出版社から発表した写真詩集『千の風になって』に自ら曲付した歌を唄い、と持ち時間1時間半は「あっ」という間に過ぎた。私との対談も面白かった。「芥川賞の候補に四回なって四回目に授賞したけど、一回目は、電通のオフィスで、二回目は、門前仲町で、三回目は、岩波ホールの客席で、そして四回目に授賞したときは、なんと山手線でぐるぐる周って、有楽町の駅で公衆電話で聞いたんだ。携帯のない時だったけど、三回の落選はつらかったな」こんな話をした。講演の演題は『千の風から希望の木へ』だった。終演のとき客席から割れんばかりの拍手が起こった。我々ふたりは、お客様に聞こえない声で「大成功だったね!」と手を取り合った。大成功だった!
高松の講演会を終え、翌日から2泊の予定で私は京都にむかった。宿泊は、ネットで予約をした。このホテルがどんな宿か私には知識がなかった。3カ月以上も前のことだったが、以前使ったホテルの全てに予約の電話を入れたが、どこも予約でいっぱいになってとれなかったのだ。紅葉の季節でもあり、最近突然増えた外国人旅行者でいっぱいなのは判る。ホテルの数が追いつかないのだろう。ただ、どこの予約も3カ月前と聞いていたから、それにならっただけだった。そのホテルの情報、ネットの写真で設備を見たがあまり変とは思わなかったが、それが落とし穴だった。金額もそれなりにする。高松の定宿で一番良いホテルの1.5倍くらいの値段だった。それで安心したのだ。フロントで明日の朝食時間を私は訊ねた。「このホテルには、食事の設備はございません」が返事だった。部屋に入るとワンルームマンションより狭く、小さなツインベッドの間を横歩きしなければならない。荷物を置くスペースもない。スツールのような小さな椅子が2客と30センチ四方のテーブル、驚いたことに窓があるようで無いに等しかった。最悪だった。
東京の家に1枚のハガキが届いた。「今まで行った全ての講演会で今回が一番良かった」という内容だった。最高で、最悪な旅をしてきたわけだ。