閉門即是深山 75
命の恩人
赤坂のオフィスの玄関に2本の白い沈丁花がある。
私は、沈丁花の花の香が大好きだ。
今年も懐かしい香をいっぱいに風に乗せている。
しかし、辛い時期でもある。私は、胸を張って言えるくらいの「花粉症」だ。
1月から感じる年もあるが、今年は、2月初旬から花粉の散らばるのを感じだした。最近では、もう治ることを諦めている。
小学生のころ、私は学校へバスを乗り継ぎ通った。最寄りのバス停まで、歩いて5分くらいだったろう。この季節、かならずバス停に向かう途中で、気持ちが悪くなったのを記憶している。60年以上前のことだ。バス停に向かう途中には、護国寺という壮大な敷地を持つ徳川家鎮守の寺があり、また、近くには、都心としては大きな雑司ヶ谷墓地がある。余談だが、この墓地には、文豪・夏目漱石が眠る。
カラスも多いこの一帯は、以前から春ともなれば花粉がいっぱい飛散していたのではなかろうか。当時では「花粉症」という言葉もなかった。私は、この時期が怖かった。気持ちも悪くなり、鼻詰まりも酷かった。
想い返せば、あれは確かに花粉症の症状だった。私は、医師ではないから本当のことは判らないが、花粉症になった人たちには、ふた通りの症状があるのではないかと思う。口や喉から炎症がおきる人と、耳鼻からくる人だ。やはりその人の弱いところから花粉症の症状が出てくるような気がする。
私は、子供のころから目と耳が弱い。だから花粉は、眼から襲ってくるように感じる。この時期、私は、マスクより花粉症用の眼鏡に頼る。マスクを離さない時もあったが、眼鏡をしだした後の方が、何となく緩和されたようだ。それには、理由がある。幼児だった昔の話しだから、私自身に記憶はない。両親から聞いたことを合わせた話しである。
戦後直ぐに生まれた私は、中耳炎になったそうだ。高熱を発し、祖父の主治医大堀博士が診たところ命にも係わる問題だったらしい。戦後直ぐの時、現在のように良い薬がなかった。大堀博士の紹介のもと、父は、進駐軍の将校から「ちょっと緑がかった粉薬をもらい」受けた。それを水に溶かし注射をする。「赤ん坊だから、けして腕に打っちゃだめですよ。腕が捥<も>げる場合があるから、かならず太股の内側に打ってください」と将校から注意されたと父から聞いた。「それが、ペニシリンだったんだよ。当時は、日本で手に入らない薬だったんだよ」。「お父様が、水に溶かして打ったおかげで、次の日なんか、きゃあきゃあ言って貴方遊んでいたのよ」
そういえば、今だに私の太股の内側に窪みが残っている。これは、記憶にあるが、両親に連れられて赤坂の山王神社の近くにあった山王ホテルに行き、米軍将校のトロッター氏に頭を下げた。細身の男で背が高く、カーキ色の軍服を着ていた。胸に付けた勲章の輝きや、米兵の被る舟形の軍帽をよく覚えている。そのせいであろう。私は、耳が昔から良くない。聴力が悪いかといえば、そうではない。子供のころから時々中耳炎ぎみになる。
「ナツキは、いいよ!」
小学校からの友人で、26,7年前に亡くなった歌舞伎役者尾上辰之助がいった。初代尾上松緑のひとり息子である。急逝する何年か前から頻繁に彼とふたりで会うようになった。
私が、出版社の文藝雑誌の編集をしているころで、夜が遅くなる。彼は、舞台が跳ね、上客の酒宴に付き合う。同じ時間くらいに我々は、暇が出来た。私が勤める出版社は、麹町にあった。彼の自宅は、今、ホテルニューオータニの谷の下にあるブルガリの店のある所だったから、歩いても5分とかからない。
「ナツキ、今日は、時間あるか?」「大丈夫だよ、トオル、行けるよ!」男同士の夜の逢引だった。
奥方の造ってくれた夜食をつつきながら、よく朝方まで話しあった。彼は本好きで、私から面白い本を聞きたがった。そんな雑談をしていた時である。
彼は「ナツキは、良いよ。トロッターさんに会えたんだろ? お礼が言えたんじゃないか! 羨ましいよ。僕なんて……」
ひと呼吸置くと彼は、話し出した。どうも私と同じようなことが、あったらしい。とにかく20年以上も経ってしまったから、私は、詳しくは思いだせない。
「京都の南座に出演していた時だったんだ。僕は、それまで命の恩人である外人が、かならず僕の舞台を観にきてくれると信じていた。ナツキの話しのように僕も助けられた経験がある。でも、その相手の将校の名前を教えてもらえなかった。僕ね、ひと目逢ってお礼が言いたかったんだよ。だから、舞台からいつも探していた。変だろ? 記憶に無い人をいつも探していたんだから、でも、ある日見つけたんだ。絶対この人だ!って僕には判った。舞台が終わって、衣裳を着替え、慌てて化粧をとってロビーに走り出たよ。まだ居てくれ、居てくれ、一度、貴方にお礼が言いたいから、ってね。隅から隅まで捜したさ、表に出たよ、四条河原町の方も、八坂神社の方にも走った。けど、その人の影もなかった。ナツキ、僕は、おまえが羨ましいよ」
それから、半年後に彼は逝った。
もしかすると、まだ探しまくっているやも知れない。どこかで出逢えて、子供の時に命をすくってくれた御礼が出来ていれば嬉しいのだが……。