閉門即是深山 73
偶然に
先週、香川菊池寛賞の受賞式に行ってきた。
受賞式の後、中央公園にある菊池寛像への献花式がある。それから、その後、本賞と奨励賞を受賞した受賞者を囲んでの昼食会となる。
祖父の像が立つ中央公園は、受賞式場にあてられた市庁舎の前にあって、玄関から500メートルくらいの所にその立像がある。
何年か前までは、菊池寛が卒業した中学校の生徒さんたちがこの時期に祖父の銅像の掃除をしてくれていた。しかし、現在は、その学校も統合されて無い。
菊池寛記念館に勤めるKさんから電話をもらった。像を拭いてくれたという。私も年に何回かしか高松に行けないから、このような親切が嬉しい。
「なにか、先生のお顔を拭いたら嬉しそうに微笑まれましてね」
Kさんは、電話で言う。
菊池寛は、若いころのあだ名を“たどん”と言われていた。
高松には「ぞろうな」と言う方言がある。物ぐさで、不潔で、汚い人を指すらしい。祖父を称すれば、この「ぞろうな」に当たる。あだ名の“たどん”もこの辺りからきたのだろう。背が低く、ずんぐりと肥っていて、転ばせば、ころころと転がりそうな体形である。そして、風呂嫌いときているから“たどん”そのものであった。
それでも、菊池寛記念館の職員Kさんが顔を拭いてくれたのだから嬉しかったのだろう。「嬉しそうに微笑んだ」のは、目の錯覚ではなかろう。きっと祖父の像は、嬉しかったに違いない。
祖父の銅像は、つい微笑んでしまったのだろう。
香川菊池寛賞や菊池寛ジュニアー賞の受賞者、菊池寛顕彰会や市、高松市菊池寛記念館の方々が像の前で献花をしてくれるのは、嬉しい。ただ、自分がする時、いつも困るのだが、銅像に向かって一礼するのは、やっぱり可笑しい。私は、その時はいつも祖父の顔を見上げ、祖父と同じ世界に逝った長男勇樹のことや、母のことなどを頼むことにしている。心の中の対話である。
昨年7月7日の日、菊池寛の次女で私の叔母ナナ子がアチラの世界に行った。明治生まれの祖父が叔母にその名を付けたのだから、ハイカラである。なぜ、ナナ子だったのだろうか?3年近く叔母の介護をしながら、私は、それが謎であった。偶然であるには違いないが、なにか判った気がした。それは、ナナ子の亡くなった日にあった。7月7日、まさしくナナ子である。
ナナ子が遺したピンバッジを私はジャケットの胸に付けて高松へ行った。ナナ子が、病院を出たら私と一緒にもう一度高松に行ってみたいと言っていたからである。その夢は叶わなかったが、ナナ子は、私と共に確かに高松に行った。叔母は、京都にも行きたいと生前言っていた。
これも偶然なのだが、本来この菊池寛賞の旅の後は、日本ペンクラブの仕事で富山に行くつもりでいた。しかし、急に変更になり、仕事が京都に変わったのだ。
献花式と受賞者を囲んだ食事会の後、直ぐに私は京都に向かうつもりでいた。
「私たち、あなたのお父様とよくお茶を飲んだのよ。そして、よくお話ししたわ。楽しかった!」
中央公園の菊池寛像での献花式の後、菊池寛顕彰会の方々のお誘いもあったので、セレモニーが終わってから皆さんと市庁舎の1階にある喫茶店で一緒の時間を過ごしてから、私は、急いで京都に向かった。
京都は、左京区一乗寺松原に詩仙堂はある。名だたる武将が、刀を捨て、漢詩を学んだ庵で、庭園が美しい。
大文字さんを背にうけた山の中にある。
「そうだ、京都、行こう!」
の宣伝ポスターにある庭で、寒椿や満天星(どうだんつつじ)が美しい。
菊池寛の終の棲みかとなった家にも、この木々があった。
叔母に、この庭を見せたが、どう思ったろうか?
さて、食事でもとホテルに向かおうとした時、白川通りに出る手前に一軒の小さな茶屋が出ていた。和菓子類を売っている。
見ると、食事が出来そうである。そして、食事の見本が置いてあった。
赤飯と白みそのお雑煮のセットだった。赤飯は、私の大好物である。
香川県では、正月には白みそのお雑煮である。
むかし田舎であった高松の人々は、京に憧れ、真似をしていたのではあるまいか。
私の家も正月には、“白みそのお雑煮”を食べていた。
その茶屋で食べた雑煮は、私の家の味そのものだった。
全ては偶然であったが、昨年逝った叔母ナナ子が行きたかった高松や京都にも行けた。
そして、菊池の家に伝わった“白みそのお雑煮”をナナ子に味わってもらえて、私は、素晴らしい旅を終えることが出来た。
叔母の好きだった紅茶は飲みに行かなかったが、京都の美味しい珈琲を各店で堪能したことを書き添えておく。