人間は神になれるのか? | honya.jp

閉門即是深山 21

人間は神になれるのか?

『新世紀エヴァンゲリオン』という題名のアニメがある。
原作は、GAINAXというグループで、監督は、庵野秀明氏である。
エヴァンゲリオンとはラテン語で、直訳すると聖書にある「福音」という意味であるらしい。この物語では、エヴェンゲリオンという言葉は「アダムとエヴァ」の“エヴァ”にもかかっているような気がする。1990年半ばから始まったこのテレビ用のアニメも何度かその内容の一部が変更され、映画化もされている。観たことのない方もパチンコ台でお目にかかったことがあるかも知れない。もう20年近く人気が続いているには、大きな理由がある。これは、戦闘ロボットを使った「愛」の物語だからだ。「愛」といっても恋愛小説のような「愛」ではない。「愛とは、なんぞや?」という大きなテーマにチャレンジした物語なのだ。ゆえに、「愛」を知りたい若者たちや子供たちのそれこそ“福音書”になった。

物語をかいつまんで書けば、神の御心に逆らってさまざまな悪さをしてきた人間たちを、神は一度“殲滅(せんめつ 一網打尽全てを滅する意)し、またよりよい人間に造り直そうと思った。そして、13使徒を人間世界に送り、総攻撃をおこなった。人間たちは、神に皆殺しにあってはかなわんと思い、神と戦う武器を考えだした。神の武器は、「愛」。キリスト教哲学によれば、「神=愛」だからだ。それならば、人間も同じ武器を持たねばならじと、人間が出来る「愛」の形を造った。それは、どの教会でも見れる「キリストを抱くマリア」の像である。息子を抱く、または、息子をお腹に入れた母の子を守る力は強い。「無償の愛」といわれるもの。これが人間の出来る「愛」の形だった。人間は、ある母の魂を使って「エヴァンゲリオン」というロボットを造り、その母の息子を乗せて神と戦う。この物語によって、若い世代は、「愛とは、なんぞや?」を考え始めたのである。

毎日のように、ぽっちゃり顔で愛らしい、お婆ちゃんの割烹着を着た30歳の女性がテレビのニュースで放送されている。あのSTAP細胞を発見した小保方晴子博士だ。ノーベル賞を受賞した京大の山中伸弥教授の発明したiPS細胞より作製が簡単らしい。いまのところはマウスだが、マウスの体の細胞を、弱酸性の液体で25分間浸し、刺激したくらいで万能細胞の作製出来るらしい。
万能細胞は、筋肉や内臓、脳など体を作る全ての種類の細胞に変化出来る細胞のことである。胎盤も出来るとニュースはいっていた。そして、リセット、つまり細胞の若返りも出来るという。
STAP細胞のSTAPは「刺激惹起性多能性獲得」の略だと新聞に書いてあった。
大変な発見が、私の生きている間になされたものだ! それに若く、可愛い、女性の手での発見だった。
いまはマウスだけでの成功だが、人間の細胞もこの理論で通用するのは、結構速いのではないだろうか? 子供の頃から障害を持って生まれた人や、後天的でも、いま体のことで思い悩んでいる若者にとって福音だろう。この発見により、癌も、そしてあらゆる病気が治せるようになるかも知れない。私も嬉しくなる。大いに喜ばしい限りだ。

ただ、ひとつ心配なことがある。それは、今後の使い方次第なのだ。上記したような喜ばしいことに使うならば、なにも心配はいらない。しかし、人間は強欲なのだ。何百年、何千年の歴史がその強欲を伝えているし、宗教もその強欲を戒めている。しかし、人間は強欲に負け続けてきた。
そうなると、今回の素晴らしい発見、新万能細胞STAPの発見は「神の領域に入った愚かな人類」を作りだすのではないだろうか。
原子や核融合、核爆発の発見で、原爆や原発が発明された。環境問題にしても同じことがいえよう。現在、その原発の賛否が問われ、国は、賛否で2分されている。
「賛」は、経済や国民が生活することで欠かすことが出来ないといい、「否」は、危険この上ないものだという。
STAP万能細胞が進化することによって、「危険」な考えはある。それは、人間の「強欲」が原因になるのだ。「人間の幸福」を充分考えての進化ならば良いが、もし、「強欲」の入る隙があったら「悲惨な世界」を生むことになるかも知れない。それは、富と貧の“差別”や人間が人間を殺す“殺人”を生むのではないだろうか? 全てが“生き”そして、新たに“生まれる”ならば、人間は、飢えるか、地球の上がラッシュアワーのようになるからだ。

自然では、人間はいつか平等に死を迎える。それは、平等で自然で、諦めがつく。それが、死ななくてよくなったらの「悲劇」を考えると、手放しでSTAP万能細胞の発見を喜んでばかりいられない気がするのだ。「神の領域を侵す人間」は、どうなってしまうのだろうか?
時の進み方が早すぎるような気がする。時間をかけて充分に考えて進まないと後戻りできない問題を、進化が早過ぎ充分に考えぬまま進んでしまう。科学の恐ろしさを感じるのだ。
これからは、科学の問題ではなく文学の問題になるのかも知れない。科学と文学の融合が必要な時が来ているのだろう。