閉門即是深山 32
リハビリの巻
もしもし、もしもし、聞こえる? もしもし!
五月蠅いのは、向こうではない。こちらの宴会場が五月蠅いのだ。
「五月の蠅(はえ)」と書いて「うるさい」と読む。日本語は、なんと粋だろう。
とにかく、電話の向こうの声が聞こえない。
前の金曜日、作家の勝目梓さんの本2冊が刊行された出版記念会の宴たけなわの時に、私の首から掛かった携帯電話のバイブレータが震え出し、ランプが点滅しだしたのだ。
勝目梓さんは、今年作家になって40年が経つ。また、その間出版された作品は、なんと320冊と聞いた。年で割れば1年に8冊出版したことになる。凄い! しかし、なぜ、いまさらの出版記念会かというと、氏は今までに一度も出版記念会をしたことが無く、まわりの編集者が企画したのだ。
今回320冊目になったのは、私が勤めていた文藝春秋が刊行した『あしあと』という題の単行本だった。
帯には「官能×文学 作家生活40周年の集大成! 〈妖しく〉〈怪しく〉〈危うい〉……短篇小説を極めた作家の至芸が、ここにある。」と書かれている。裏には『百舌の叫ぶ夜』の著者逢坂剛氏の言葉で、
「この作品集は、〈死〉〈夢〉〈記憶〉〈再会〉〈奇縁〉等のイメージを核として、それらが自在に絡んだり離れたりしながら、独特の情念の世界を構築していく。なかんずく、〈老い〉と〈青春〉の融合と乖離が、目もあやに読者の前に展開される。一見、人為的にも感じられる〈偶然〉の連続が、鮮やかに〈必然〉に転換昇華していく構成は、まことに心地よい。まさにおとなの読む小説、それも極上のブランディを飲むように、寝る前に少しずつ楽しむべき、ぜいたくな作品集である。(文藝春秋「本の話」より)」とある。
また、その前の319冊目の光文社から刊行された単行本『秘事』の帯には、
「性と生の深奥に迫る、巨匠の異色作。三人の男女が、それぞれ自分のために残した記録。赤裸々な独白が、秘めた想いを浮き彫りにする。名手の技巧が冴え渡る傑作長編。」と書かれている。
この2冊の出版記念会が、東銀座の料亭に囲まれた一角の料理屋で、その日その時、行われていたのだ。普通この手のパーティーは、立食と相場が決まっている。しかし、この日は、粋な料理屋の大広間をぶち抜き50人の古今の勝目さんの担当者が集まって、ドンチャン騒ぎになった。さすが、勝目さんは、82歳になって320冊目の出版記念会が恥ずかしかったのか、シャイな氏は、その昔、氏が主催していた「句会」にしようと突然言い出されたらしい。何の準備も無いままに、出版記念会と句会とOB編集者の同窓会のごった煮となり、料理も豚しゃぶのごった煮だったから、場は、支離滅裂、阿鼻叫喚、岡目八目、四面楚歌、殿御乱心、白河夜船になるのは、しかたがなかった。
しかし、こんな時に限って私の携帯電話が震え出したのだ。
あちらから、ギャーッと絞殺される声が聞こえれば、こちらからギャーッと絞殺す声が聞こえる。綺麗な座敷は、酒や料理や糞尿の雨あられ。客人たちの行いも、想像絶しがたい。動物? 恐竜? いったい何? という有様であろうか。本来、以前から勝目梓大先生が、鞭や拍車、ローソクあたりで調教でもしていればこんなことにはならなかったのに、野放しにしておいた為にこんな行状になってしまった。小説の編集者とは、世に合わなく、忌嫌われ、世からのはみ出し者がなる商売だから、作家がきちっと調教していなければ「人間」ではない。しかし、後の祭りであった。そんな時に限って私の携帯のランプが点滅し、バイブが震え出し、液晶画面に小学校からの友人の名が現れるのだ。液晶画面に綴りだす渾名は、サブ。本名は、三郎というその友人は、大学時代、私を含む5人で「The XL-5」というロックバンドのリーダーだった男だった。
もしもし、聞こえる? ちょっと待った! 今、廊下に出るから。
私は、相手の言葉も聞こえず、ただひたすら送話器に向かって怒鳴り、動物や恐竜たちが、組んず解れつする間をアメリカンフットボールの選手のように廊下に向かって走った。廊下もサッカーの観客席のようだったが、まだ良い。
ごめん、聞こえるか? もしもし、聞こえるか?
やっと、サブの脅えるような言葉が受話器を通して帰ってきた。
「おまえ、今どこにいるの? アフリカか?」
いや東京、銀座のど真ん中にいるよ。
「そうか、アフリカだったら遠すぎて頼めないと思ったんだけど、ジジジーッ東京か。ジジーならいいが、……に…だから、たいこ…やってくんないか?メンバーが…足りない…ドラム…入って…くんない…か?詳し…メール……入れ…お前…アドレ…教えて?」
きゃー! やめろ! 死ぬ~! お前は、小学館だろ~! 俺は、集英社出身だ、首絞めるな~ぁ! せ、先生、助けてぇ~! 何が何だか、下戸でシラフの私には、酔っ払いの気持ちは、わからない。また、電子音痴の私は、携帯が何処で繋がり、どうして繋がらないのかもわからない。ただ、友人が新しいバンドを組むのでドラムのお前も入れ!と言っているのだろう。「NO!」と言ったことのない私は、携帯のサブに向かって「YES!」と言っていた。私の老人の体は凝り固まり、歩くのもやっとなのだが…。しかし、良いリハビリになるかも知れない。何もしなくても手だけは、いつも震えているのだから……!