ブーケ(花束) | 閉門即是深山(菊池夏樹) | honya.jp

閉門即是深山 511

ブーケ(花束)

昨年も多くの人が、この世を去った。一番辛かったのが、親友で、学友で、ロンドンに小説家たちをお連れした時に一生懸命お世話をしてくれたミッツ・マングローブの父親の徳光君である。いや、もう一人いた。作家の伊集院静さん。小説誌の編集者だった頃は、私は伊集院さんの編集担当者ではなかった。ある日、ひょっこりと私の携帯に彼から電話があった。話の内容は覚えていない。たしか、ゴルフの話だった事は間違いない。

一緒にゴルフをかなりやった。私が社の命令で『月刊文藝春秋』の臨時増刊号の編集長をした時のことだった。臨時増刊号のテーマを「ゴルフ、その大いなる魔力」とした。雑誌には珍しく初版と同時に重版がかかった号だった。300名以上の著名人のゴルフ談義エッセイを載せ、カラー頁と本文との抱き合わせで「ゴルフ場座談会」も載せた。出演者は、ハードボイルド小説の旗手大沢在昌さん、スペイン好きで探偵小説やスペインのフランコ時代を書いたらこの作家に及ばないだろう逢坂剛さん、そして、伊集院静さんの三人の座談会。もちろん、3人の作家と私と4人でコースを廻った後、互いに罵り合う座談会になったが、自分で編集しながら笑ってしまうような面白い頁が出来た。
伊集院さんが、何年か前に脳溢血で倒れた時、大沢さんに様子を伝えてもらった。ふたりは、とても馬が合っていたからだ。「会話も出来るし、大丈夫だよ」大沢さんが言ってくれて安心していた。それから、何年か経って逝ってしまった。

このひとには、正式には会っていない!そのひとも亡くなってしまった。会っていないわけでは無い。紀尾井町の社から、急ぎの用でタクシーに乗った。作家に急に銀座に呼び出されたと思うのだが、記憶は定かではない。
タクシーは、半蔵門に出てお堀に沿って銀座に向かった。国立劇場の前を通り、桜田門の信号を通過するころから私の乗ったタクシーに平行して走る高級そうな自動車が1台あった。私が興味を持ったのは、リアーガラスも横の窓もカーテンが引かれていたからだ。その頃は、もう黒いシールドがあり、自動車の後部座席に座るひとを見せたくない車には黒のシールドが貼られていた。カーテンは、ひと世代前のものだった。
日比谷の交差点で両方の車が平行して止まった。信号が、赤になったからだ。カーテンに女性の手が見えた。そして、カーテンが開かれた。一瞬八代亜紀の眼と私の眼が見つめ合った。なぜ、八代亜紀がカーテンを開けたのか、錯覚にせよ私の眼を見つめたのか、今だに私の心に残る小さな疑問である。

宴会の時の「舟歌」の替え歌は、私の十八番だった。「雨の慕情」も好きな歌だった。彼女が、この世を去ってスマホに彼女の歌のアルバムを作った。私の若き友人が「八代亜紀の『花(ブーケ)束』は、すごく良い詞ですよ」と言われ、それもアルバムに入れた!やっと、すっかり女を捨てられた私を、今更キザなあんたがポストに花束を残すから、自分が女だったのを思い出させたじゃないのよ!と、歌詞が並んでいる。