閉門即是深山 127
おや、ま~ぁ!
またまた、赤坂のオフィスに入る前に立ち寄りサボる喫茶店ニュー・セイムで珈琲を飲んでいたときのことである。
「またまた」と書いたのは、この私のブログを続けて読んでくださる方々には判るが、たまたま間違って入り込んでしまった読者には、何が何だかわからないだろうからで、私は、よくこの喫茶店を舞台にする。
ニュー・セイムは、煙草が嫌いな方には薦めない。都内では、少なくなった煙草を堂々と吸え、美味しい珈琲が飲める煙草好きには、天国のような喫茶店のことだ。赤坂のインター・コンチネンタル・ホテルの斜向かいにある。
その日も、私がかってに定席と決めている席に座って珈琲と煙草と、イアー・ホーンから流れる曲を楽しんでいた。
ところが、向かいの大きなテーブル席に、美女と野獣が向かいあってお喋りをしているのが見えた。美女が、野獣に向かって満面の笑みを湛え、野獣を指さしている。今のイアー・ホーンは、性能が恐ろしく良い。昔のように周りに迷惑がかからないように、チャカチャカという音をださない。逆に、歩きながら曲を聞いていても事故に出くわさないように、周りの音が聴きとれるようになっている。どんな構造になっているか不思議だが、きっと機械音痴の私には一生解らないだろう。
その時も、美女の声が聞こえてきた。
「あなたも気をつけなさいよ!」野獣に指さし言った言葉だった。
「何故だよう!」野獣が応戦している。「僕は、これでも紳士だぜ」
お店で働く素敵な女性が話の中に入ってきた。
「そんなことがあったんですか」
「そうなのよ、今日ね、電車の中でね、私見ちゃったのよ、もう一度言うけどね、どうも若者が老人の足を踏んだらしいの。老人が怒ったら、その若者がわざと、こんなように、ギューっと思い切り老人の足をまた踏んで走ってホームに逃げたのよ、そしたら、老人がコラ~!って言ってホームに逃げた若者をとっ捕まえて、ボコボコにしちゃってサッ!親子くらいの歳の差かな、老人もサラリーマンみたいでピシッとしたスーツを着た紳士でさぁ!若者は、傷害罪だ!傷害罪だ!って叫んでんの」
私は、その喧嘩をしている老若男達のどちらが悪いのか判断がつかない。きっと最初に足を踏んだ若者が、あっ、すいません!なんて言っておけば起こらなかった事件だろう。人間て面白いなぁ、と、私は思いながら、また流れてくる曲に耳を向けた。
その時だった。私の携帯のバイブレータが震えだした。画面を見ると中学時代からの親友で、今、爺いバンドを組んでいる奴の名前が携帯の液晶に出ている。
「ホイ、ホイ!」
彼の声が受話器から聞こえた。
「俺たちさぁ、もう皆70歳じゃない、だからさぁ、もうこのバンドだってさぁ、10年くらいしか出来ないかも知れないじゃない。だからさぁ、楽器だけのインストルメンタルもいいけどさ、自分たちで弾きながら歌えるなんて、最高に幸せじゃん!カラオケじゃなくて、生のバンドだよ!お前もそう思わない?だから、練習時間を一時間くらい皆の歌を入れてやりたいんだよ」
昔から陽気な奴だ。言いたいことを勝手にしゃべっている。私は、「そうだな」とか「反対はしてないよ」とか相の手を打った。
「そ、それじゃ決まりだ!それでだ、お前の歌いたい曲は、なんだ?」
急に言われてもなぁ!
私は、人前で歌うのが苦手だった。大学時代に彼らとバンドを組んで荒稼ぎをしていた時に、ロックの他にフォークソングを入れて歌った。が、私だけ「下手!」と言われて歌わせてもらえなかった。それが、ずっとトラウマになっていた。出版社に入社し、30歳になったころカラオケのブームがきた。確か、まだエイト・トラックの時代だった。35歳で私は小説誌『オール讀物』の編集者になった。最初の仕事は、作家が集まる生オケパーティーに出席することだった。5、6人の作家が主催し、彼らが審査委員になる。各社の編集者担当が、ひとりひとり生ギターの演奏で舞台の上で歌わなければならない仕掛けだった。私は、トウの経った新参者である。「まず皮切りに誰か?」先輩編集者が司会者となって貸切の場内を見渡した。席は満席で、50名近くが固唾を呑んでいる。「どうせ、歌わせられるのなら、ヤケクソジャい!」私は一番バッターとして、手を挙げた。最初にマイクを持つのは、作家や各社の編集者に覚えてもらう絶好のチャンスかも知れない。「曲は何を?」「森進一の『花と蝶』を!」私は、聞いたことはあったが、歌ったことはなかった。タモリのように真似をしながら歌った。今では、テレビの芸人たちもモノマネが持て囃されている。そのころは、そんなブームの少し前だった。ヤンヤ!ヤンヤ!の喝采を受け、優勝のトロフィーまで頂いた。歌は下手だ。ただ、エンターティメントだったら、勝てる。携帯の受話器の向こうで奴の声がする「それでだ、お前の歌いたい曲は、なんだ?」皆むかしに流行ったフォークソングだろう!『花と蝶』とは、言えない。「『長い髪の少女』、『小さな日記』、『空に星があるように』、『いい日旅立ち』あたりでどうだろう?でも音を2度くらい下げて弾いてくれよ、歳をとって声が低くなったからな」今日これから初の歌の練習がある。