あぁ!また、ひとり | honya.jp

閉門即是深山 番外特別緊急掲載編

あぁ!また、ひとり

44年前であった。
私が文藝春秋に入社して3年目の時である。
当時、文藝春秋は、毎年春と秋に愛読者と自社宣伝を兼ねて作家や漫画家をお連れし、各地に講演の旅に出かけていた。祖父・菊池寛が社を創業して以来の恒例の行事であった。その時は、秋の講演会だったと思う。
私は、当時文藝関係とは別の部署にいたが、講演旅行は、月曜日から土曜日までの一週間の旅で、私は、青森から鳴子まで太平洋沿いを下ってくる講演会の随行員に選ばれたのだった。
講師は、『鬼平犯科帳』の著者 池波正太郎氏、『アトミックのおぼん』などを画かれていた漫画家の杉浦幸雄氏、そしてもうひとり、その前年『光と影』で第63回直木賞を受賞したばかりの新進気鋭作家 渡辺淳一氏だった。
渡辺さんは、その直木賞を受賞する前年、昭和44年に札幌医大の心臓移植事件をテーマにした『小説・心臓移植』を発表して、学内から大反発をくらい札幌医大の講師の職を辞さなければならなくなっていた。そして、上京し作家としてデビューした矢先だった。
渡辺さんにとってその講演は初めてだった。現在は、どの地方に行っても大きな会場は、いっぱいある。しかし、当時青森でさえ大人数を収容できる会場は、無かった。確か、そのときは、町の小さな映画館が会場だったような気がする。
一番最初の講演者が、どうしても若い作家になる。舞台の袖で動物園の檻の中の熊のように行ったり来たりしていた淳一さんの姿を思い出す。
司会者の声が舞台の袖まで聞こえてきた。
「え~ぇ、最初にご講演して頂きますのは、昨年直木賞を受賞された渡辺淳一さんです。演題は、この垂れ幕にも書かれていますように『男と女』です。それでは、渡辺先生をお呼びしましょう! 盛大な拍手をもってお迎えください! 渡辺先生、ど~ぞ~っ!」
割れんばかりの拍手だった。私は、渡辺さんの邪魔をしないように、そっと舞台の袖にいる渡辺さんのそばによりそっていた。
「え~ぇ、渡辺先生、ど~ぞ~っ!」拍手の中、マイクを持った司会者が二度呼んだが、淳一さんは動こうとはしない。司会者が焦った顔で袖にいる渡辺さんを見た。その時だった、
「き、きく、菊池君! ぼ、僕のお尻を押してくれ!」舞台にいる司会者を見ながら、渡辺さんは、私に呟いたのだった。
「ご、ご免!」びっくりした私は、あわてて渡辺淳一さんのお尻を思い切り押した。少し強すぎたと思ったが、入社したての私は、どのくらいの力でお尻を押せば人がどのくらいまで行くのか知らなかった。経験がなかったのだ。渡辺さんは、『勧進帳』の弁慶の如くたたらを踏んだ。
それが、渡辺淳一さんの最初の講演会だった。
池波正太郎さんも杉浦幸雄さんも亡くなられた。
私を可愛がってくださった早乙女貢さんも、笹沢左保さんも山田風太郎さんも井上ひさしさんも松本清張さんも亡くなられた。
そして、44年間ずっと可愛がってくださった淳一さんまでもが……。
渡辺淳一さんとの想い出話は、いっぱいある。この誌面を借りて少しずつ思い出しながら書いてみたいと思っている。
連休の中、ごろりとしながらテレビをつけた。突然、渡辺淳一氏の死が伝えられていた。先生、80歳。葬儀は、近親者で営われたという。近々、お別れの会をすると報じていた。
私は、居ても立ってもいられず、花屋に飛び込んだ。80歳、白いカーネーションを5本と赤いカーネーションを3本の花束を作ってもらった。
花屋さんが「何にご利用ですか?」と訊くので祭壇に飾っていただくんですと答えると「赤い花をですか?」と不思議そうに私を見ていた。
これで良いんです。私は、花束を引ったくるようにして花屋を出て車を飛ばした。
渡辺淳一さんには、白よりも赤が似合う。
そんな話をご遺族にしたら「そうですよ、父は、赤のほうが似合うんです」お嬢さんに許してもらえたようだ。
渡辺さんは、私よりひと回り年上だったが、なぜか私より長生きされるような気がしていた。私が死ぬとき渡辺さんが私の枕のそばで、
「死ぬんじゃないぞ、菊池くん、死ぬんじゃないぞ!」と言ってくれるものと勝手に思っていた。あ~ぁ、また、ひとり大切な人が逝っちゃった!