「面影」について | honya.jp

閉門即是深山 55

「面影」について

東京、都の西北、都電早稲田駅の次に面影橋という駅がある。
この都電は、昔、通称王子電車と呼ばれていて、王子から大塚、池袋経由で雑司ヶ谷墓地や鬼子母神脇を通り抜け、日本初の立体交差、千登勢橋を潜って終点 早稲田に至る。今残る唯一の都電である。現在は、都電荒川線というらしい。
都電荒川線は、千登勢橋から明治通りに暫く沿って走り、戸山にある学習院女子大学手前を左に折れる。そこで、神田川、神田上水と並行するのだ。
神田上水は、徳川家康が江戸に都を造ったとき、飲み水として引いた。源流は、井の頭池、善福寺池、妙正寺池だそうだ。秩父山系から地下に潜った水が、湧き上がった場所がこの三つの池だったのかも知れない。
確かに、神田上水の上手には、語源らしい地名が多い。鷺宮、野方、沼袋、落合。多分、3本の川が集まった所は、沼地で、鷺も多く、沼の洲のような所に川が落ち合い、1本の神田川となったのだろう。
この神田川、少しお城に向かうと江戸川橋、大曲と続く。この辺りは、江戸の時代から鰻の養殖地であったのだろう。養殖と言っても、網などに入れて神田上水に浸け、各地からきた鰻を生きたまま飼っていたと思う。現在でも有名な鰻屋が何軒か残っているが、鰻屋の屋号の“神田川”もこのへんからつけられたのではあるまいか。さて、左に折れた都電荒川線の最初の停車場が、面影橋である。この地の名前の由来を以前耳にしたことがあった。

江戸時代の江戸町内は、無数の運河があったそうな。東洋のベニスと呼ばれた。ほとんどが現在主要の道路の地下に土管を利用した川となっている。よく時代小説に出てくる八丁堀や伝馬町、小伝馬町などは、野村胡堂の画く「銭形平次捕物控」や岡本綺堂原作「半七捕物帳」、池波正太郎の「鬼平犯科帳」などに頻繁に出てくる。ここいらは、現在の桜田門に匹敵する場所で、警察、裁判所、牢獄があった場所だ。八丁堀川や京橋川は、今は、もう見えないが、交通の要所の川であった。伝馬町から罪人が処刑場に運ばれるのも舟が多かったろう。舟ならば、いざこざが起こりにくいからだ。神田上水の面影橋には、処刑場があった。現在は、多くのお寺が点在するが、処刑場跡地だったからかも知れない。罪人が御茶ノ水、飯田橋、大曲、江戸川橋と舟で上って行き、処刑場の前で舟から降ろされる。きっとその最期の瞬間、罪人のこの世の最期を家族にそっと見せてやったのが、この橋の袂であったのだろう。粋な計らいだったのかも知れない。家族が、その面影を残す。きっとその名が残ったのだと思う。

面影と言えば、先に逝った私の長男の面影は消えたことは無い。もう、7、8年も前のことだが、眠りについている時以外は、常に私の頭の中にある。家人も同じようで、ふたりの会話には、常に出てくる。が、しかし、あまりにも私にとって生々しいので、ここには書けない。
それと違って、母や父、義母や義父のことは書ける。
多分、縁は、当たり前だと思っていて、逆縁は、あってはならないと思っているからだろう。
母が亡くなる4日前の木曜日、私は、母が臥している病室に見舞いに行った。互いになにも言えず、病室の眼下の神田川に来ている鴨の話しばかりしていたと思う。「じゃぁ、また今度の日曜に見舞にくるよ!」と言って、ドアに向かった時、母の声がした。「さようなら!」。それまで私は、母から“さようなら”と言われた記憶がない。振り返って母の顔を私は見た。それが現在私の頭にある母の“面影”である。日曜日、早朝、母は危篤に陥った。
病院のベッドの上で、喋れなくなった父は、私に向かって何日も、何度も、私に手を合わせた。父と息子は、常に対立をする。私たち親子もご多分に洩れなかった。手を合わせ、私に向きあう父は、何を言いたかったのか、その“面影”だけが、今も私の胸に残る。
車椅子を押して、病院の談話室に入った。義父の腕も、脛も枯れ枝のようであった。軍服を着て、軍馬に跨り、歩兵部隊を連れた悠々の姿は、黄ばんだ一葉の写真に残る。
車椅子に座った義父の口に、好物の珈琲にとろみをつけたものを家人が運ぶ。毎週の見舞の時の儀式だった。それは、突然だった。何年も自分の足で立つことのなかった義父が、車椅子を後ろに引き、きちっと立ったのだ。そして、私に向かって最敬礼をして「ありがとう!」と言った。次に義父は、家人に向かい同じことをした。翌週、同じ曜日に見舞に行く車の中で、義父の訃報を知った。あの最敬礼と「ありがとう!」は、義父の“面影”である。
まさか!まさか、だった。叔母の訃報は、月曜の朝だった。娘も夫も先に亡くして孤独になってしまった叔母を、私の自宅に近い介護センター病院に入ってもらっていた。毎週、週末、木曜日か金曜に見舞に行く習慣が、私には出来ていた。週一に決めたのは、それ以上自分に課したら嫌になることを避けるためだった。金曜に、いつものように叔母を見舞った。いつものようにお喋りをし、いつものように叔母の背や手を擦り、ふたりで笑った。時間が来て「また来るよ!」いつものように叔母に言い、叔母も「風邪引かないようにね」と言った。エレベーターに乗って、ドアが閉まるまで、いつもと同じ叔母が見えるように手を大きく振った。叔母も車椅子に座ったまま、小さく手を振って、私に微笑んだ。全て、いつものようにだった。最期の叔母の頬笑みが、脳裏から消えない。