「荒げる」について | honya.jp

閉門即是深山 51

「荒げる」について

私は、ひとから「穏やかな人」と思われている節がある。
実は、私も若い時分には、そう思っていた。
20年近く前に会社からひとつの部隊を預り、編集長として雑誌作りに励んでいたとき、当時の副編集長に訊ねたことがあった。私は、自分で解らないとき、よく他人に訊いてみるクセがある。
「僕さぁ、他人から穏やかな人、ガンコ者じゃないように思われているけどさぁ、君、どう思う?」
なぜ、急にそれを訊きたくなったのか忘れたが、彼の返事はよく覚えている。
「あなたが、ガンコ者じゃなかったら、誰がガンコなんです?あなたは、“ガンコな人”の塊のような人だし、決して“穏やかな人”じゃ無い!」
訊かねば良かったと、私は、反省した。
私は、自分を“穏やかな人”“ガンコじゃない人”として演じていたのだろうか?

以前のブログにも書いたが、この初夏、菊池寛の次女であるナナ子が亡くなった。叔母と一緒に住んでいて先に亡くなった私の父の住居の掃除も儘ならぬ内に、叔母の家のかたずけもしなければならなくなった。
そして、あちこち部屋の襖を開けると、出てくるは、出てくるは、爺さんが使った帯やタイプライター、椅子だの棚だの、銀製のティーセットだの、また、ひと箱もある祖父に来た手紙だの。
普通の人には、なんの役にも立たないような品々、またそれは、金目の物では無い。とにかく菊池寛が使っていたような私物で、それが全て昭和の初期のようなもので、埃をかぶっていた。金目の物ではなく、捨てられない物ほど困るものは無い。
一計を案じた私は、高松市にある菊池寛記念館に委ねることにした。もし、引き取らなければ、粗大ごみにするぞ!と脅し文句を添付しつつである。
繰り返し言えば、ただその物を見た人は「いらないよ!」と言うに決まっている。しかし、いったん菊池寛が使っていた品々と言えば、高松市菊池寛記念館は、「邪険」にするまい。そう考えて、成功した。もし、「嫌」と言われたら、置いておく場所も無く、粗大ごみにするしか方法がなかったから、私は嘘を言ったわけではない。本当のことを言うもんだから、私の言葉に「迫真」を感じたのだろう。とにかく高松まで品々を運搬する業者を叔母の家まで呼んで、何かのついでだからと記念館から何人もの人が来た。「こりゃ、一大事になってしまった!」

そこで、品々を皆さんに見せたわけだが、「菊池寛の帯」と言って川端康成氏や松本清張氏、井上ひさし氏など多くの方々が書いてくれた菊池寛伝には欠かすことの出来ない伝説的帯がやっと見つかったのだから、私自身、感激した。しかし、どうも皆の目が冷ややかに見える。少なくとも大発見で、いつも「尻尾のように帯をたらす、ダラシナイ帯の締め方」が菊池寛のトレードマークであるから、せめて菊池寛に纏わる仕事をしている者は、私のように感涙に咽<むせ>ぶだろうと思っていたのは、迂闊であった。彼らにとって菊池寛は、仕事上の人物なのだ。だが、待てよ、しかし、彼らの興味では無い。今後、菊池寛を調べたい人や研究者にとって、これほどの逸品は無いはずだと、気を取り直した私は、いくつかある銀製のトロフィーに目をむけた。私は老眼で読めないので、代わりに読んでもらった。
そこには、昭和のはじめころの年代と日日新聞社の名前が書かれていた。よくみると文藝春秋がもらったものらしい。スキー部がもらったトロフィーもあった。そういえば、この家は、文藝春秋の発祥の地であった。
さて、その品々を運搬の業者の方とどのくらいの分量になるかを相談しているころ、高松から来た人のひとりが「トロフィーは、高松にも沢山あるから」と不用意に呟いた。それが、私をカチンとさせた。
「結構です。無かったことにしましょう!もし、そうでしたら今高松市に置かれている展示品の品々も引きあげます。そして、全て粗大ゴミに出します!」
思っていたのか、思っていなかったのか判らないが、言ってしまった。
「いや、いや、いや!×△□!」高松市から来られた菊池寛記念館の館長が、慌てふためき何かよう判らんことを言っている。私は、心の中で「君たちは、僕の爺さんを好きで、または、尊敬して仕事をしているの?」と訊きたく思ったが、これ以上傷口を大きくしないために「ごめん!」と謝った。
祖父・菊池寛も、よく大喧嘩をしていたらしい。中央公論の初代社長嶋中さんを祖父が殴ったのも逸話になっていて、あるパーティーの席で、嶋中さんのお孫さんに出会ったとき「孫同士、握手をしよう!」と言われた。何だかわからず手を出した私に手を合わせた嶋中さんのお孫さんは、ニコリと微笑んで「これで長い間の嶋中家と菊池家の仲直りが出来たね」と言われた。へ~ぇ!
喧嘩っ早さ、声を荒げること、頑固なことは、菊池の家の他に知られざるお家芸のひとつなのかも知れない。

そう言えば、父が私に伝えるお爺ちゃんの逸話のいくつかは、いつも喧嘩の話しばかりだった。父も「穏やかな人」と「喧嘩っ早い人」の間を往きつ戻りつしていたに違いない。父が子に、お家芸の覚悟を伝えていたのだろうか。
どうも、息子たちを見るとこのお家芸は、ずっと受け継がれているように思える。