閉門即是深山 5
鬼平さんの気持ち
池波正太郎夫妻とのヨーロッパの旅から帰国して、私はすぐに池波正太郎氏邸に電話をかけた。
実は、そっとお土産を買って帰ってきていた。ご機嫌なな目な池波さんの折角最後の夫婦海外旅行を台無しにしてしまった夫人に対する私のお詫びのしるし、それと、それよりも逢って頂く口実の品として買ってきたものだった。
自分の失態がわからない。しかし、ご本人のご機嫌が悪い以上は、長く担当をしてきた自分が編集者として悪いと思うほかはなかった。
旅の間中、ご機嫌の悪い池波さんの傍に付き添っていた奥さま、豊子夫人は、毎日のように私に「あなたは、なにも悪くないのよ、せっかく一生懸命してくれているのに、ごめんなさい!」と、私を慰めてくれた。付き添っているご自分のほうが、私よりもっと大変だったろうに!
電話に出たのは、豊子夫人だった。「ちょっと、待ってくださいね!いま池波に代わりますから」優しい口調だった。
「おう!」池波さんの声が受話器から聞こえた。
「とんだご無礼をして、先生と奥さまの旅を台無しにしてしまいました。どうぞ、お許しください。お厭かもしれませんが、旅で土産を買いました。ご都合の宜しい日にお持ちしたいのですが」私は、こんなことをいった。40年近く前のことだし、私ももっと若かったので、しどろもどろになりながら、もっと恐縮した言葉でいったにちがいない。
私が一番恐れていたのは、先生に叱られることではなかった。「もう、二度とお前の顔を見たくない!」といわれれば、悲しいし、寂しいが「はい!」といわざるを得ない状況だった。それは、覚悟の上だった。恐れていたのは、かっこよくいえば「もう、『鬼平犯科帳』は書かないよ!辞めるよ!終わりだ!」といわれることだった。鬼平は、今でも人気のある作品だ。映画でも、テレビドラマでも、人気がある。それを、辞めるといわれたら、自分はなんのために編集者になったのだろう!
「明日、1時は、空いてるよ」「ありがとうございます。1時にご自宅に伺います」
翌日、1時に土産を持って、池波さんのお宅にお伺いした。少し前に着き、時計の針が1時を刺したときに、呼び鈴を押したが、返事がなかった。今までの長いお付き合いで一度もなかったことだった。
土産物の袋を玄関のノブにかけ、慌てて手紙を書き、その中に入れたとき、路地先から、豊子夫人の声が聞こえた。「どうしたの?」「いえ、1時にお宅にと先生が…」「あら、ごめんなさいね、池波は朝から映画の試写会に行ったのよ」
「いいんです、きっと先生は、僕の顔を見たくないんでしょう。これを届けにきただけですから」「だって…」「奥さまにも大変ご迷惑をおかけしました。お許しください!」「あなたは、なにも悪くありません!悪いのは、池波の方ですよ、内にとって、あなたは息子みたいな者なのよ!」「ありがとうございます。また、出直します」
それから、1年近くも連絡が途絶えてしまった。
途絶えて10ヶ月後、7月ころだったか?毎年の行事のように、ついつい浅草寺に行って雷除けのお札を買った。帰りに朝顔市によって紙で出来た紫の朝顔を買い求め、これを、宅配便で池波邸に届けた。本来は、毎年それを持って玄関をくぐるのだが、今年は、それも出来ない。手紙を添えた。「昨年も、先生の応接間に飾って頂いた朝顔も色褪せたと思います。これは、私の長い習慣です。本来ならば、例年のようにお持ちするべきものですが、急に出張が入りまして、ご無礼は、重々承知の上でお送りさせて頂きました」出張は、嘘だった。
池波さんから手紙が返ってきた。優しい内容の手紙だった。いまでも、私の部屋に大切に飾ってある。
暑い夏を避け、9月に1年ぶりに再会した。そして、その秋から池波さんは、体調を崩して、入院した。
今、私は、あのときの池波正太郎氏と同じ歳になった。今なら、池波さんのイライラが判る。同じ歳になって初めて判ることがある。
私も池波さんがイライラした後の対応は悪かったけど、奥さまが言ってくださった通り、主な原因は他にあったと思うことにしている。私は、悪くなかった。でも、池波さんも悪くない。人は、ある歳の、ある時期に、ああなるのだ。それが、旅先で起こってしまっただけだったのだ。原因は、得も知れぬ不安。今の私には、痛いほどに判る。あのときの池波先生は、高血圧症、それとも更年期障害だったのかも知れない。42歳だったあの頃の私には、気が付かなかった。気付いてあげればよかったと思っている。あんなに忙しい作家なのに、今の私と同じ得も言われぬ不安があったのかも知れない。これは、辛い! 何か自分に出来たはずだ。しなければならなかったはずだが、若い自分には、判らなかった。
あの優しかった池波夫人も、今年帰らぬ人となった。